こんな日はもう、少し悪いコになって、風邪をひいただの腸チフスを患っただのと適当な嘘をついて、ズル休みすることにいたしましょう。だってお外は雨。カーテンの隙間から差し込む暗い光線は心地よい陰鬱さで、耳を澄ませばパラパラと、遠くで太鼓を叩いているような雨の音色。無理に身支度を整えていつものように出掛けるなんて、とてもバカらしいではありませんか。雨の日のズル休みは一等贅沢です。ベッドの上で伸びをして、枕を抱えて呆けている。フランス映画のアンニュイな主人公にでもなった気分で、本棚から小難しい本を取り出し、覚めぬ頭で読書の時間。キェルケゴオル、パスカル、リルケの詩集……。神様を信じている人達の書物がよいですね。
BGMには小さな音で、「ヨハネ受難曲」あたりを選んでみましょう。雨の日にはこんな中世の叙唱曲が、余りにしっくりとくるのです。──そこでピラトはイエスを捕らえて鞭打った。兵卒らは、茨で冠を編んでイエスの頭に被せ、紫色の上衣を着せた。(後藤暢子訳/A・スカルラッティ「ヨハネ受難曲」)──
よく僕は雨が降ると、ウォークマンにこんな曲を放り込んで、外を歩き廻ります。景色はとたんに青白く速度を緩め、世界は一つの方程式の解を求めて流されていくような錯覚に沈み込んでいきます。傷ついたフィルムの静粛なセンチメンタリズム。雨垂れを振り切って走る電車のノイズが、汽笛にも似て耳の奥底に混入してきます。インスタントな信仰心に胸を詰まらせながら、僕はノアの方舟の話を想い出してみます。──その日に大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開けて、雨は四十日四十夜、地に降り注いだのでした。(『創世記』)──
雨の日の過ごしかたの話をしようと思っていたのでしたね。昨夜の夜遅くから降り続けた雨は、読書をしながら二度寝してしまった昼過ぎにはもう、上がっていることでしょう。小鳥が鳴き始めます。電話を掛けてみましょうか。雨にも負けず仕事に出掛けた電話の相手は、用件のない暴力的な電話にきっと困惑することでしょう。いっそ「バカ」と一言だけ囁いて、電話を切ってしまいましょうか。だって、今日は雨ふり。健全な乙女の不健全な安息日なのですもの。主は云われました。「雨の日は務めを怠り、信仰心と共に非生産的な一日を過ごしなさい」と。
主よ、今日一日の無駄を感謝します。この懶惰《らんだ》を赦し給え。アーメン。