霧の向こうの薔薇畑で花を手折りし捲き毛の少年。バンパネラ、永遠の生命を持ち、人の血を糧に千年の時を、同じ姿のまま生き続けるもの。点描画のように精巧な絵と厳選されたネームで綴られた少女漫画の金字塔『ポーの一族』は、まるで薄手の絹のカーテンが幾重にもなったドレープを、遠くに過ぎていく台風がさざめかすかのような、萩尾望都の代表作にして最高傑作。ここに早くも少女漫画は終着せりという感すらあります。最も敬愛する作家は大島弓子、青春のバイブルは竹宮恵子の『風と木の詩』である僕なのですが、歴史上最も優れた少女漫画を挙げろといわれれば、迷わずこの『ポーの一族』と答えるでしょう。その風格はミケランジェロの『天地創造』に匹敵するくらい、人智を超えた奇跡的な小宇宙の濃度を有しています。
バンパネラとして異形のものとなった少年、或いは少女は、現実の肉体から逸脱したポエジーの肉体です。バンパネラというアリバイによってポエジーの肉体がリアリティを確立する時、僕達は恋愛という命題が、存在の淋しさ故に互いを呼びあう磁力として本質を語り始めることを眼にします。──「メリーベルがぼくを忘れないでいてくれる/たったそれだけのことが/こんなにも失いたくない思いのすべてだったなんて」。余りにも無防備で赤裸々な言葉は、満天の星空に思わず我を忘れて泣きじゃくる胸の痛みに似ています。それは、きっと原始の欲求なのです。
原始の欲求とは、近親相姦的なエロスです。幼時体験を共有する兄と妹、父の愛した女性の娘を愛してしまう二人の兄弟、孤独のシンパシー故に惹かれあう少年達。異質なもの同士がコミュニケートするのが社会的進化なら、同質のもの同士が引きあうのは明らかに退行であり、ナルシシズムのユートピアへと向かう欲望です。が、一体それの何処に問題がありましょう。幼児的性愛こそが、エロチシズムの最も崇高かつロマンチックな形ではないでしょうか。僕達は自分の分身を探し求めています。その作業がたとえ自己愛の迷宮を彷徨う身勝手な幻想であろうと、気にしちゃいけません。幻想は幻想だと定義してしまう時、ダイヤモンドは石墨へと輝きを失ってしまうのです。
『ポーの一族』は、それが完全な幻想世界に終始することによって、逆に現実的破綻から免れています。物語としての強靱さは勇気です。僕達はこの勇気を見習わなくてはなりません。近親相姦への勇気! 悔い改めたりは致しますまい。