薔薇の花を食したことがおありでしょうか。白いお皿の上の真っ赤な花弁は不思議な重量感を持ちそれを口に運ぶには慎重、かつこの上なく上品にフォークとナイフを動かさねばならないのです。口の中に入れた後も決して歯をたてず、そう、舌を丸めて、いいですか、口内に拡がる香を喉の奥で手際良く吸い取らねばなりません。この方法は英国風。薔薇と共に歴史を重ねきたイングランドの貴族の中でも、この食事を知る者はおそらく今はもう少なくなっていることでしょう。
この最も贅沢な享楽の為には大切な友も売りとばしてしまいませう。親を殺《あや》めることさえ造作ありません。それ程にこの食事は余りに甘美なのです。味わえばきっとわずらわしい恋人の涙にさえ、心を動かされなくなる筈です。中井英夫が紡ぎ出した『とらんぷ譚』。五四の物語からなる短編集は、これまで過去に一度きりしか五二枚のトランプと二枚のジョーカーを揃わせたことなく、分冊などしつつ作品は常に散点し続けていたのです。それがここにきてやっとトランプは一組に戻りました。創元ライブラリ、なんと文庫で再生してしまったのです。
ページをめくる度、むせ返るくらい薔薇の香がたちこめるトリッキーな幻想小説、中でもスペードの項になる連作「幻想博物館」はもう、幻惑が過ぎる余り失神してしまいそうな程。もう澁澤龍彦でさえ人の良い田舎者に思える程に優雅な恐るべきこの中井英夫の遊戯は、スタイリッシュながらも小栗虫太郎程スノビズムを感じさせぬ錬金術がおりなす世界。それはマニエリストにしか夢見れぬユートピアなのです。
嗚呼、真に気高き書は人を廃人にする。魔術師アレイスター・クロウリーが魔術書と共にルイス・キャロルを愛したように、マジシャン達はきっと自分の祭壇の上にカバラ的恍惚を与えしこの物語を置く。決して『カード・ミステリー』なんてつまらぬトランプ話と混同なきように。薔薇がその身体に寄生することを夢みる人、たえなる告白はプリンセスを茨の眠りから覚ます秘薬、現実より遥かに価値を持ち得る。彼方への冒険譚を繙《ひもと》き人外境へと赴きましょう。僕はスペエド、君はハアト…………。