テレビのC・Mもひと昔前にくらべると芸も細かくなり、なかなか巧みになってきた。とりわけサントリーのC・Mには何時も感心するのだが、あの宣伝部には後に小説家になった開高健氏や山口瞳氏がいたのである。
鼻毛ぬきつつテレビを見ながら、私も時々、自分がもしC・Mを作らせられたら、どういうのを作るかなと考えることがある。
こんなのはどうだろう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1)美女がお風呂に入っている。
(2)その美女があたりを、そっと見まわす。
(3)湯のなかから、大きな泡がブクブクと出てくる。
(4)その泡の一つがパチンと割れる。
(5)美女は顔をしかめて、臭いという表情をする。
(6)画面に大きく「ガスは正しく使いましょう」という字と東京ガス提供と出る。
[#ここで字下げ終わり]
私としては会心のC・Mのアイデアなのだが少し品がなさすぎるだろうか。東京ガスはこんなC・Mを使ってくれないだろうか。もちろん、使ってくれないにちがいない。鼻毛をぬきながら私の考えるようなことは、まこと、こんなクダらんことなのである。
今まで、お読みくださった読者は多分、御察しがつくと思うが、私は「下《しも》がかった」話が決して嫌いではない。私は基督教の洗礼をうけた男なので「神がかった」本を読むのも好きであるが「下《しも》がかった」馬鹿話を友人としたり、自分で考えたりするのはむしろ大好きなほうだ。
私のところによく遊びにくる日本女子大の二人の女子学生は「小児のオマルの研究」を卒業論文にしているためか、やはり「下《しも》がかった」話に非常に興味をもっている。
いつかこの二人の女子学生に「厠」という語源をきかれた。これはすぐ答えられた。「川や」と言って昔の人は川のそばに便所をつくり、水にながすという法をとったからである。
しかしオナラとなると、これが「音鳴る」から来たのか「尾鳴る」から来たのか、語源的にはっきりしない。
「クソ」というのは「臭し」から来たのであり臭き素という意味なのであろうと女子学生たちに言った。
読者のかたには大変、真面目な方がおられて、時々私の出鱈目を本気にされて非常に恐縮することがある。
前にこんなことを小説中に書いたことがあった。
「運勢」という言葉は昔人間のウンコの勢いを見て、その人の将来の吉兆を占ったことから出来たのである。
京都にそういう意味で「運勢」を見る名人が織田信長の頃いて、この名人の宅には毎朝、おのがウンコの一切れを持参する男女が絶えなかった。ウンコはその人の健康をよく示すことは現代の医者もみとめることだが、昔はそのウンの勢い、形、などで当人の生命力、未来の幸、不幸も見わける術があったという。
以上のことは勿論、鼻毛ぬきつつ私がぼんやり考えた出鱈目だったのだが、これを小説のなかに書き入れたところ、四国の真面目な読者からお手紙を頂戴して、右の説の出典を是非教えてほしいと言う内容が書かれており、恐縮してお詫び状をさしあげたことがある。
私はあれこれ考えるのだが「へ」「シッコ」「イバリ」などの言葉がどうして生れたのかわからない。「へ」の場合、仏蘭西語では「ペ」というから、何か共通したものがあるのかしらん。御教示頂ければ幸いである。