毎日、ドサリと郵便包の束が運ばれてくる。その三分の一はほとんど私にとっては役にたたぬダイレクトメールなのであり、あとの三分の一は雑誌や新聞であり、残りの三分の一が本当の郵便である。
朝食をひとりで食べながら、その郵便を一つ一つ見る。
ほとんど毎日のようにそのなかに未知の人からの手紙がある。私の書いたものを読んで感想を書いてくださった手紙はやはり嬉しい。
だがそのなかに時折、妙な手紙もまじっている。金を貸せという手紙。自分の土地を買わないかという手紙。それらはまだそれぞれの理由や事情がわかるから返事の書きようもあるが、たとえば、
「兄上さま」
冒頭から、そんな書きだしの便箋の文字を読むと、弟や妹のない私はびっくりしてしまう。
びっくりはまだ早い。
「今回、兄上様の御厚意で、お妹さまの安達瞳子さまと私の婚約が成立し、嬉しく、幸福に思っております」
これは一体、何のことだ。
兄上さまというのは私のことらしい。だが安達瞳子さんと私とは兄妹でもなければ、こういう相談をうける親類でもない。
よみ進むうちに、どうやらこの手紙の差し出し人は、テレビで私と安達瞳子さんとの対談をみているうちに二人が兄妹と信じこみ、その上、彼自身と安達瞳子さんとが婚約することを兄である私が許可したという幻想を抱いた人だとわかってきた。
要するに頭のおかしな人なのである。
(またか——)
私は溜息をついた。春近くなるとこういう手紙が時々、舞いこむ。始めての経験ではないのだ。
返事は出さないことにする。
しかし、この人は三日おきぐらいに手紙を寄こしてくる。その上何通目かに、
「昨日は明治神宮に参拝し、我々二人の将来の幸福を祈り、あわせて兄上さまの御健康を祈願しました。兄上さまに銀製品を一品、お送りしました」
と書いてあると、流石に困ってしまう。いわれのない品物——しかも銀製品などもらうのは迷惑だからだ。
よほど安達さんに電話をして手紙をそちらに廻そうかと思ったが、私に迷惑なことを彼女に押しつけるわけにはいかない。彼女も身におぼえのないことにビックリされるにちがいない。
私は仕方なしに差し出し人の下宿の住所を電話局に告げ、その電話番号をやっと調べると、管理人にこの人の親兄弟の居場所を教えてもらうことにする。
「ああ、やはり、そうですか。どうも、こっちでもおかしい、おかしいと思っていたんです」
向うの管理人は親切にその弟さんに連絡することを約束してくれる。
三日ぐらいして弟さんから電話がかかってくる。しきりに詫びられ善処すると言ってくださる。
やれやれ、これで安心だ。
以後、全くその人から手紙はこない。そして手紙ではなく、小さな箱が丁寧に包装されて送られてきた。
あけると、何と銀色の小さな靴ベラが入っていた。もちろん銀ではない。彼が「銀製品を一品、送った」と言ったのはこのことだったのである。
しかし、今のような人はまだ困るというほどではない。困るのは、自分が私の小説のモデルだと思いこんで、やって来る人である。
もう十年以上も前のことだが、三重県から私の『おバカさん』という新聞小説のモデルだと言って上京してきた女性がいた。
私はその女性に会った事はそれまで一度もない。見た事も話したこともない。見たことも話したこともない相手をモデルにするのは不可能である。
それに——
私のこの『おバカさん』の主人公はガストン・ボナパルトという外人の間のぬけた男であって女性ではないのである。それなのに彼女は飽くまでも自分がモデルであると称して首を縦にふらない。
その女性は年の頃、四十にちかく青い帽子をかぶり、トランクを右手にぶらさげてあらわれた。
私は大声をだし、モデルなどあの小説にいないと力説また力説するのだが、彼女はその力説をうす笑いを浮べて聞いているだけであって、こっちの話がすむと、
「わたしがモデルですねん」
とまた頑強にくりかえすのである。
ほとほと困ってしまった。最後には疲れ果てて、
「それでモデルだと言われる以上、何がお望みですか」
と言うと、妙な返事をした。
「あの……わたしのこと、幾ら思いはっても、私には婚約者がいますから、アキらめてください」
仰天して私は思わず叫んだ。
「あなたはそれを言うために三重からわざわざ上京して下さったのですか」
コックリと彼女はうなずくのである。ありがとうございますと私は言ってお引きとりねがった。
これだけなら笑い話ですむ。だが、ありがとうございますと私が言ったのが悪かったのである。それを真にうけた彼女は数ヵ月後に、ふたたび現われたのだ。そして今度は、いつの間にか、彼女の頭には私が彼女の婚約者である風に出来あがっていたのである。
ちょうど幸いなことにはその時、『おバカさん』を連載したA新聞のM記者が遊びにきていた。
彼は私と口をそろえて、
「『おバカさん』にモデルはない」
「あんたとは婚約していない」
力説、また力説するのであるが、この四十歳の女性はうす笑いを口にうかべて黙っているだけである。
M記者はたまりかねて、私の愚妻と息子とをつれてきて、
「みなさい。この人はもう結婚している。子供もある」
と言ってくれたが、相手は騒がず、驚かず自信ありげにこう言った。
「この子はこの女の連れ子や」
もうこうなっては説得のしようもないのである。
私は交番にかけあいに行ったが、こういう時、交番は全く頼りにならぬもので、
「傷害でもその女が起したというなら、わかるが、それだけで連れていくわけにはいかんなあ」
と答えるだけだった。
皆さんはここまで読まれて馬鹿馬鹿しいと思われるだろう。しかし当事者としては馬鹿馬鹿しいどころではないのである。
一年ぐらい彼女の音沙汰はなかった。私はそのこともすっかり忘れて気にもとめなかった。
一年後、私は病気をして目黒にある病院に入院していた。
ある日、昼食のあと、私がベッドでうつらうつらしていると、突然、扉が開いた。
看護婦かと思って眼をあけると、何と、その女性である。
「心配いらんよ」
と彼女は仰天して起きあがった私に言った。
「入院費だって私がチャンと作ってきてあげたから」
「入院費、だれの入院費?」
「あんたの入院費」
私は病室をとび出し、看護婦室に飛んでいってそこにいた婦長に事情を話した。しかし事情を話しても、彼女がそれを何処まで信じてくれたかどうかわからない。
「とに角、病室から出ていってもらって下さい」
婦長はもう一人の看護婦と私の部屋にやってきた。
「今、安静時間だしね。面会謝絶なんですよ。帰ってくれますか」
「あんた、だれ。いやだよ。帰らない」
「病院には規則があるんですよ」
「しかし家族は病室にいて、いいんでしょうッ」
「家族って、あんた、家族ですか」
「そうだよ。この人の婚約者ですよ」
私はもう恥ずかしく、毛布を両手に持ったまま彼女に怒ったり婦長に叫んだりしていた。
ようやく諦めて病室を出た彼女はそのあと二時間ぐらい、病院の庭にじっと立っていたが、やがて姿を消した。
だがそれで落着したわけではない。なぜならそれから毎日、彼女は病院にあらわれ、看護婦の目をかすめては私の病室に侵入しようとしてきたからである。
退屈な患者たちにはこの出来事は面白半分の話題の種になった。迷惑この上もないのは私である。
私は意を決して医師と婦長と相談し、慶応病院に転院することにした。
始めは笑える話も今はもう癪の種である。相手の住所も経歴もわからぬ以上、向うの家族に抗議することもできぬ。
私は慶応病院に移ってやれやれと胸をなでおろしたが、そうは物事、うまくいかなかった。
商売柄、私の転院がどこかで活字になったらしい。あるいはどういう手づるで調べたのかわからないが、彼女はまた慶応病院にやってきたのである。
それは私が手術をうけた直後でウンウン、ベッドで呻いている時だった。鼻孔には酸素吸入のゴム管が入れられ、足には輸血の針がさしこまれ、附添さんがつききりで、その附添さんが一寸、昼食をとりに病室を離れた間である。突然飛びこんできた彼女は、
「大丈夫よ。大丈夫よ」
と叫びながら、私の体をゆさぶったのである。
助けて、人殺しと叫びたかった。しかし鼻にゴム管を入れられ、息たえだえの手術直後の私は大声をだす体力もない。ゆさぶられるたびに体にすさまじい痛みが走った。
その時、幸いにも附添さんが戻ってきてくれたのである。
私はこの時ばかりは本当に怒った。ひどいと思った。こういう病気の人を野放しでおく厚生省に怒った。しかし、どうしてよいのかわからない。私は友人の神経科医で作家の北杜夫に相談した。
北杜夫に相談したのは彼が神経医であり、そんな患者の専門家であることを知っていたからである。
北杜夫のほかに私はA新聞にいる友人のM君にも何とかしてくれと頼んだ。ベッドに呻吟する私としては自分で歩きまわることはできない。友人たちにこんな愚劣なことで迷惑をかけるのは申しわけなかったが、ほかに手のうちようがなかったのである。
「いや、閉口したよ」
M君はそれから五、六日して病室に来て苦笑しながら言った。
「君、彼女はアパートを借りているんだ。この病院のちかくの……」
「へえ」
「そして管理人にそれとなく、聞いてみたら、何と彼女は週刊誌にのっていた君の写真を切りぬいて、それに御飯をおいてね……恢復を祈っているらしいぜ」
私は何とも言えぬ辛い、当惑した気持になった。自分には迷惑なこの頭の狂った女性が急にいじらしくなってきた。しかしどうにも仕方がないではないか。
「彼女に会ってくれたのか」
「会ったよ、喫茶店につれだして」
「それで向うに何と言ったんだ」
M君は可笑しそうに下をむいて、
「俺は彼女に遠藤は君をアイシテイルとでも言ったのかと聞いてやったんだ。そうしたら、彼女はそう言われたと答えたぜ」
「冗談じゃねえよ」
私はベッドに寝たまま手術の傷口が痛むのも忘れて大声をあげた。
「ぼくがそんなこと、言う筈がねえじゃないか」
「小説のなかで私にそう愛を告白したと彼女は言うんだ。それも時代小説のなかで」
「ぼくは時代小説を一つも書いたことはないぜ」
「俺もそう教えてやったよ。しかし彼女がその時、何と答えたと思う」
「わからん」
「ほかの人は知らないだろうが、遠藤周作はペンネームを使って時代小説を書いている。そのペンネームは南条範夫という名だってさ。南条範夫の名で書いた時代小説のなかで、私に愛を告白したんだと、そう彼女は言っていた」
M君のその話を聞いた時、私は頭をかかえて、かなわんと叫んでしまった。南条さんは私も愛読する時代作家である。だが、この時ばかりは、南条さん、どうしてくれるという気持だった。(もっとも南条さんも身におぼえのないこと、恨んでも仕方がない)
「あれじゃ、どうにもならんね」
心やさしい北杜夫は神経科の先生に早速、連絡をとってくれた。
その先生が私の病室にこられ、色々、話を聞いて、
「何か、彼女からの手紙がないでしょうか」
私は早速、彼女からもらった二、三通の手紙をみせると、
「あっ、これさえあればもう完全に狂っているとわかります」
とりわけ手紙のなかには私たちの恋愛(?)は電波によって日本中に知れ渡っていると書いてあったが、その電波という文字の使い方が専門医から見ると、電気ショック療法をかつて受けた証拠になるのだそうである。
彼女はやがて病院につれていかれたが、下宿においた荷物のあずかり証拠人がないので、私がなった。
その後、彼女の消息はきかない。