むかし渋谷に住んでいた頃、終電車の時刻頃、急に家を出て人影もまばらになった道玄坂やその裏通りを歩くことがあった。何か突拍子も無い出来事や事件にぶつからないかと思ったからである。
それで気づいたのだが、ああいう盛り場には朝まで全く人がいなくなるということはないのである。勿論、表通りに人影はないが裏通りを徘徊してみると、必ず誰かがいる。午前三時ごろ、マラソンの稽古をやっている男をみたことがあるし、眠くなったのでこうして散歩しているのだという受験生にも会ったことがある。地方都市などはこういうことがないだろうから、流石、東京だと思った。
しかし真夜中、一人で裏通りを歩いていてもさほど怖ろしくないのも東京であって、これがニューヨークならこうはいかないだろう。この間、新聞にニューヨークで深夜、殺された日本人のニュースが出ていたが、私も二、三年まえ、東京のつもりでニューヨークの真夜中を散歩していたら、気味わるい巨大な男たちが、アチコチでこちらをじっと見ているので、早々にホテルに戻り、翌日、知人にそれを話してひどく叱られたことがあった。カッパライ、強盗、殺人、ニューヨークの犯罪率は当時からすさまじかったのだから、叱られたのも無理はない。
中近東は全部、行ったわけではないが、あの乾燥した国々には二千年にちかい前の都市や町が廃墟になって残っていることがある。
イスラエルのガリラヤ湖といえば聖書を読んだ人には、ああ、イエスが説教して廻った湖かとすぐ思い出されるだろう。そのガリラヤ湖に出かけた時、山の中にコラジンという古い古い町の廃墟があるのを発見した。聖書にも出てくるのだから非常に古い町と考えて頂きたい。町といっても日本の村ぐらいの大きさで、真黒に風雨にさらされた石の家、石の路、公会堂の残骸が半ば原形を残しながらそのままに残っているのだが、何分、山の中なので日中にも訪れる人もない。
それを昼間みて、夕方宿に戻り、真夜中になってから突然、そこに今、行ってみたい欲望にかられた。
こういう好奇心にかられると私は自制できないところがあり、すぐ洋服をきて、宿の前にまだ流しているタクシーにコラジンまで行ってくれと頼んだ。
運ちゃんはこの真夜中、山のなかの廃墟に行く東洋人を甚だ不審そうに見たが、黙ってドアをあけてくれた。
そして真暗な灯一つともっていない山道を月のあかりを頼りに、そのコラジンにたどりついた。
「待っててくれ」
私はそう言って、おそらく千五、六百年の歳月を風雨に晒されたままになっているこの廃墟の町の中に足をふみいれた。
月の光が地面に転がった石や柱の残骸を照らしている。千五百年前にそこに人間が歩いた石畳の道が私の前につづいている。千五百年前にそこに人間が住んでいた家がその壁だけ残して西側にある。
私は何ともいえぬ眩暈のするような気持でその道を歩き、家々の壁を撫で、小さな広場に転がった円柱に腰かけて、黒い山の影とその山の上に浮ぶ月をいつまでも眺めていた。ここに住んだ人間の亡霊があちこちから出てくるような気もしたがふしぎに怖ろしくはなかった。
これが私の今日までのなかで夜の町を歩いた最も充実した経験であった。