この随筆で私は何回も仏頂面をしている自分のことを書いた。ところが先日のある日、
「あれは本当でしょうか」
未知の女の人から電話がかかってきた。
「わたしたちの見る狐狸庵さんはそんなに憂鬱そうに思えないのですがねえ」
私は本当です、スミません。あなたのイメージと違って申しわけないと言うより仕方がなかった。
実際、それは文章の綾ではなかった。というのは三日ほど前、私は自分の仏頂面にツクヅク嫌気がさして北杜夫氏に電話をかけ、この精神状態を多少、しゃべったのである。すると神経科医でもある彼はしばらく聞いた後、自分の家に来てくれと言う。
その夕暮、私は彼の家に行き、彼の問診を受け、更に彼の友人である神経医の病院に行った。ここで診察をうけて、ウツ病であると診断された次第である。北氏は既に長い間、ソウウツ病にかかり、吉行淳之介もウツ病に悩んでいたが、私も遂にその仲間入りをしたわけだ。
「ウツ病というとぼくは精神病ですか」
と北氏にきくと、彼は苦笑して、
「ウツ病は残念ながら精神病ではありません。特にあなたのは初老性ウツ病といって人生の変り目にかかり易いものです。二、三ヵ月か半年ぐらい、薬をのめば治ります。要するに神経の使いすぎが疲労をもたらしたのですな」
と言った。そして私のウツ病は彼のソウウツ病にくらべると、はるかに程度の低いものであると言って慰めてくれた。
家に戻って机に向い、ああ自分はウツ病であったかと思うと、何となくハクがついたような気がして嬉しいような情けないような複雑な気持である。しかし北氏のいう初老性ウツ病という言葉がひっかかってくる。青春のウツ病というのは何か樹液のような生ぐさい臭いがする。しかし初老性ウツ病というのは古洋服の襟の裏に溜ったホコリのような臭いがする。
「初老性ウツ病とは何ですか」
北氏にそう聞くと、彼はこう説明してくれた。
よく新聞に中年の人が突然、家を出て姿を消し、遠くの山林で首をくくっているという話があるでしょう。
家人たちは首をひねり、原因はさっぱりわかりません。思い当らないんです。その日もニコニコして、子供と野球見物に行ったぐらいなんですからね。
書置きもない。部屋など整理した気配もない。
それなのに不意に姿を消し、山林のなかで首くくっちゃう。
あれですな、初老性ウツ病とは。
北氏にそう話を聞いたのがまだ心に残っている。
私は家人にその説明をして、
「俺もある日、突然、姿を消すかもしれん」
そう言うと、家人は猫のように鼻に皺をよせてセセラ笑った。家人は北博士の診断にかかわらず、まだ私が天下晴れてお墨つきのウツ病だと信じていないのである。あるいは自分の家族の一人がウツ病だと信じたくないのかも知れない。
諸君のなかで、
1、世の中が面白くない。2、何をするのも面倒くさい。3、仕事に情熱、好奇心も余り起らぬ。4、ゴロ寝をすぐしたくなる。
以上のような気分がある人がいればウツ病の疑いがある。ある日、突然、山林に行って首くくらぬためにも医者に相談することをお奨めする。