子供の頃、私は少し低能だったと書いたが思いだしてみると、その例はまだある。
私には兄弟は二つ上の兄しかなく、この兄は、前に書いたように雨の日に花畠に傘をさして、如露で水をやっている私をみて、
「アッ」
と叫んで母親に知らせに行ったぐらいの秀才(?)であるが、とに角、学校も常に一番であり、私は長い間、その点、頭があがらなかった。
学校から戻ると兄は言いつけられた通り手を洗い、オヤツをたべ、そして勉強する。私とくると、学校から家に戻るまでかなりの時間がかかるのである。途中で蜘蛛が巣を張っているのを見ると、しゃがんでそれを眺め、犬が喧嘩していると、遠くからコワゴワそれを見物し、ノロノロ、グズグズ、家に戻るからだった。
しかして家に着くや、まず玄関の扉をそっとあけて、誰もいないのを確かめるや、ランドセルを放りこんで一目散に逃げていく。一歩、家に入って母親か女中さんに掴まると、手を洗わされ、まずいオヤツを食べさせられ(家のオヤツはまずかった。私は外で売っている鯛焼や駄菓子をたべたくて仕方がなかったのである)勉強させられるのが、たまらなくイヤだったからである。
しかし私は二歳上の兄を尊敬はしていた。学期ごとに彼のもらってくる通信簿は全甲であるにたいし、私のは良くてアヒルの行列、つまり乙、乙、乙に丙がまじっているという状態で、子供心にも、兄はえらいもんだと考えていたのである。その上、私は毎日、夜、兄から『少年倶楽部』という少年雑誌を読んでもらうのが楽しみで、かくもスラスラ、平仮名や漢字を読める彼を眼を丸くして眺めていたからである。
当時、『少年倶楽部』には附録がついていて、それには戦艦、長門の模型が組みたてられるようになっていたり、あるいは当時世界最高のエンパイア・ステイト・ビルディングの紙模型を作る紙型がまじったりしていた。
私は日曜日、兄が半日かかってエンパイア・ステイト・ビルディングを作るのを寝ころんで眺めていた。そして心の中であることを考えていた。あれが出来あがった瞬間、こわしてやろうと思っていたのである。
最後の九十九階の尖塔を彼が嬉しそうに糊づけした時、私はその考えを実行した。グシャッという音で、半日の彼の苦労は無になったのである。私はひどく母に叱られた。
しかし私が少し低能だったのではないかというのは——この兄は時折、おネショをする癖があった。母は色々な治療を試みたがうまくいかなかったようである。子供心にも私は彼に同情していた。
ある夜、隣で寝ていたこの兄が真夜中、私をゆさぶり起して、
「また、やってしまった」
と情けない、泣きそうな顔をした。
私はその時、どう思ったのか、あまり憶えていない。あれを兄にたいする同情でしたのか、尊敬でしたのかもよくわからない。ひょっとすると同情でしたのかもしれない。たしかなことは兄がおネショをしたならば、こっちは、もっとデカい大きなことをやってやれと考えたのである。
いずれにしろ翌朝、母は長男の布団におネショを、そして私のほうには寝糞を発見して仰天してしまったわけだ。私が子供の時、兄より、デカい大きなことをやったのはこれがただ一つである。
このことを思いだしてみると、子供の時の私は頭があまり良くなかったらしい。