私は音痴である。当人がそれを認めるのだから、これほど確かなことはない。滅多に唄を歌うことはないが、時たま酔っぱらって声をはりあげていると、家人はそれは何ですかと真顔できく。
いつだったか、三浦朱門が私の歌をきいてびっくりし、世にこんな音痴はいない、お前が歌っているのを聞いて、それが何の歌かわかる者がいたら賞金を出していいと言った。そこで彼とバーに行き、ホステスたちに聞いてもらったら、一人たち、二人たち、全員いなくなった。彼女たちは店の外に出て、腹をかかえて笑っていたのである。
とはいえ、私はこれでも子供の時、ヴァイオリンを習ったのである。私の母は、今の芸大、当時の上野音楽学校のヴァイオリン科を卒《お》え、後にモギレフスキーの弟子だった女であるが、私にもヴァイオリンを教えようとして、小学校二年の時から私に無理矢理にボーイングを習わせた。
キーコ、キーコと毎日、近所も戦慄するような音をたてていたが、母の姿が見えなくなると、たちまちにしてヴァイオリンの弓をチャンバラの刀に早変りさせたものだから、糸は切れて見るも無残なものとなってしまった。そして二度と母はヴァイオリンを教えてはくれなかった。
中学三年の時、ピアノでも弾くべいと思って母の友人の女性のところに通った。しかしバイエルの最初の本も終えぬうちにやめてしまった。
以来、いかなる楽器もいじったことはない。
それから歳月がたち、二年ほど前のある日、何げなくテレビを見ていたら、素人が作詩、作曲したものをプロが歌って、それを採点する番組がうつっており、その審査員に曽野綾子さんが加わっている。
私は曽野さんに電話して、
「ぼくも応募しようかなア」
と言うと、
「しなさいよ。そして作曲はうちの亭主(三浦朱門)がしたら面白いわよ」
という。
三浦ものり気で、もしこの唄と曲とがヒットして、どこかのレコード会社が買いに来たらどうしようと、二人でそのレコードの印税まで計算しはじめた。そして万一、印税がたっぷり入ったら、もう小説など書くのをやめ、プールのある家を作るかもしれぬなどと夢のようなことを語りあったのだった。
私は半日かかって(『中年男の唄』)という作詩をした。それは次のようなものだ。
女房よ 俺をバカにすな
結婚以来 二十年
だれのおかげで飯がくえ
だれのおかげで子が生めた
(繰りかえし)
あんまり 俺をなめとると
俺はこの家 出ていくぞ
出ていくったら出ていくぞ
息子よ 俺をバカにすな
ニキビのはえた その面で
自分ばかりが 日本を
わかったような口きくな
(繰りかえし同じ)
娘よ 俺をバカにすな
ステテコはいて なぜ悪い
今にお前のムコさんも
きっとステテコ はくだろう
(繰りかえし同じ)
どうです。飲屋で歌うのにいい唄でしょう。私はこの唄は必ず全国にヒットすると思うのだが、いまだレコード会社からは何とも言ってこぬ。どうしたわけじゃろか。