テレビを見ていると、よく歌手のうしろで体を章魚《たこ》のようにくねらせて踊っている四、五人の娘がいるものだ。私はそういう画面をみると、ああ、自分がもし、女の子に生れたら、ああいう娘になっていたのではないかと考える。
私がもし女に生れていたなら——娘時代、きっと、西郷輝彦さんや舟木一夫さんにのぼせ、日劇に彼等が出演すると、半徹夜しても正面、前列の席をとり、キャーキャーわめき、テープを投げて騒いでいたろうと思う。(これは冗談ではなく、慎重な自己分析の結果、そう思ったのである)ずっと前、ビートルズが来た時、私は新聞社から切符をもらって見物に行った。場所はもう忘れてしまったが、とに角、若い娘たちがもう広い会場にぎっしりと詰っていて、その発散する汗とお化粧のまじった何とも言えぬ臭いで眩暈《めまい》しそうなくらいだった。
女の子たちはビートルズのあのトランプの王さまのような連中の似顔をかいたハンカチでしきりに汗をふき、始まる前から、もう騒いでいる。
やがて、司会者が出てくると、もう場内はまるで戦場のようで音楽もヘッタクレもあったものではない。
キャーキャー、ワーワー、私は気絶しそうだったが、いよいよ、肝心のビートルズが舞台にあらわれた時は、周囲にいた女の子はおのが髪をひっぱり、眼をつりあげ、もう精神病院にいる感じだった。
ところが彼等がやがて歌い終り(何を歌ったのか聞いた奴は一人もいないだろう)皆が帰りはじめても席をたてぬ女の子があちこちにいた。
「早く帰りなさい」
婦人警官が促している。だが彼女たちはなかなか立てない。
立てないのも道理。なんと彼女たちはあまりに興奮して、おシッコを洩らしていたのである。
だが、私はこういうミーハー的娘が大好きだ。自分がもし女だったら、おそらく、ミーハーになっていただろう。
それから二、三日して、ある新聞に私は『ビートルズを見る』という随筆を書いた。
その時、一寸、いたずらをしようと思った。
そしてその文の最後に、
「私はビートルズたちの泊ったホテルのボーイと親しいので彼等からビートルズが部屋に忘れたパンツをもらった。もらったものの、私としては始末に困っている」
と書いたのである。
そして、じーっと待っていた。
果せるかな、それから二日後、電話がかかってきた。女の子である。うしろに二、三人、友だちがいるらしく、彼女たちの囁き声も受話器を通して聞えてくる。
「あの……」
と蚊のなくような声で彼女は言った。
「そのパンツ、わたしたち欲しいんですけど」
私は可笑しさを抑えながら、
「そりゃ、差しあげたいけど、ひどく、臭いんですよ」
「よごれているんですか」
「彼等、洗濯しないで捨てるらしいですなあ。臭いサルマタです」
受話器の奥で、彼女が友だちと相談している声がきこえる、「臭いんだって……」
私は可笑しくってならない。
「そんなら……いりません」
と彼女は泣きそうな声で言った。
私はこんな女の子が大好きだ。自分の娘だったら毎日、からかって遊ぶだろう。