ある日、私は長距離の電話をうけた。受話器の奥からひくいが陰気な声がきこえた。
「おぼえていますか。中学の頃、一緒だったPです」
私は記憶のなかからPの顔を思いだそうと試みたが無駄だった。
「おぼえていませんか。もっとも、ぼくは二年の時、陸軍幼年学校に移ったから」
それでは仕方がない。印象に残っていないのも無理はない。
「実は、君にうちの工場で女工員たちに話をしてもらいたいんだがね」
急に相手は狎々しい声をだしはじめた。
「ぼくは今、そこの庶務課にいるんでね。たのむよ」
その工場は東京から列車にのって七、八時間のところにあった。のみならず、その時、私には仕事が山積されていた。本当ならば断りたい気持だったが、中学時代の同級生の頼みといわれると私は弱かった。
「やってくれるやろ」
「うん」
私は仕方なく承諾をした。
三、四日の間、私は無理をつづけてやっと時間をつくり、そして列車にのった。
夕暮、海べりのその町の駅についた。四、五人の降車客の最後から、空虚なホームにつくとPがたっていた。
顔を見て、中学時代の彼をやっと思いだした。
私をみるとPは一言、二言、何かを言ったがあとは黙って歩きだした。迎えの車かタクシーを用意してあるのかと思ったが、そんな様子はない。彼は細長い、海の匂いのするわびしい町をいつまでも歩いていくのである。
私は少し失敬だと思った。中学時代の友人とはいえ、講演をたのんだ以上、タクシーくらい用意してくれてもいいと感じた。何しろ向うは手ぶらだが、私のほうは夜、仕事をするため原稿用紙や本を入れたトランクをぶらさげているのだし、数時間、列車に乗ってきているのだから。
三十分ほど歩かされ、彼はやっと一軒のうすぎたない家の前にたちどまった。ホテルでもなく、旅館でもないこの家は何だろう。
「うちの社員たちがマージャンする家や。今日は平日で誰も使うておらんさかい、あんた、ここに泊ってや」
一方的に彼はそう言うと玄関をあけて、女中をよんだ。
西日のさしこんだ、畳のやけた部屋に通された。
「すぐ飯にしよか。酒、三本持ってきて」
と女中にPは言った。女中が去ると彼は、
「ほんまは君の接待費では酒は一本ということになっとるんやで。だが特に一本、俺が追加してやったんや」
と得意そうに呟いた。私は何とも言えぬ情けない気持になって黙りこんだ。
酒がくると彼は一本目をのみはじめ、自分は戦争中、憲兵将校として台湾にいたのだと自慢しはじめた。
「あの頃は俺が睨めば、何でもできたのや。それが今は、チェッ」
チェッ、チェッと言いながら空になった徳利を電気のほうに向けて覗き、更にそれを掌の上で叩いて、わずかな滴をなめるのである。
「もうあと一本ずつ飲もう。しかしお前の分はお前、払えや、接待費はもうないのやからな」
彼は重ねてそう警告し、手をたたいて女中をよんで二本の酒を追加して、私から金をとった。
私は東京に残してきた仕事のことを考え、鞄にいれた原稿用紙を思い出したが、もう諦めたほうがよさそうだった。こうなればヤケのヤンパチ、そのような状態におかれた自分をユーモア化して見るというのが、私のいつもの手なのである。
彼は赤黒く酔いのまわった顔をこちらに向けて、しきりと軍隊時代の自分を自慢した。憲兵将校だった彼はまるで王さまのような生活をしていたのである。
「それが、チェッ、チェッ」
自慢話は急に愚痴にかわる。現在の生活が彼には不満で面白くなく、
「チェッ、チェッ」
と舌打ちをしきりにするのだ。
私は急にまだ彼も私も中学一年生だったころの母校の校庭のことを思いだした。
なぜ、そんな校庭のことを急に思いだしたのかわからない。
ただ陽のあたったグラウンドでラグビー部の少年たちが大声をあげて駆けまわり、私たちが野球をやっていた光景がふいにまぶたにうかんだのである。
「おい。女郎屋に行こう。女郎屋に」
と急にPは叫んだ。
「俺のなじみの女がいる」
しかし彼はつけ加えることも忘れなかった。
「お前の分はお前が払えよ」
仕事があるからいかないと婉曲に断ると彼はお前はどのくらい収入があるんだと根ほり葉ほり訊ねはじめた。
蹌踉としてPがこのわびしい部屋から引きあげたのは十一時すぎだった。
一人になった私は、ところどころ裂けた白い古カーテンをあけ、硝子ごしに闇につつまれた外を見たが、小さなこの海べの町はもう死んだように眠っていた。そして耳をすますと遠くでかすかに波の音がきこえた。
翌日、Pの勤めている工場で女工員を前にして、しゃべった。
Pは私を紹介するため先にたって、手を膝において腰かけた女工員たちに、
「みなさんは今からうかがう話をよく味わい人格をたかめ、心をみがく材料にしてほしいと思います」
と無表情な顔で言った。そしてそれに照れた私がシドロモドロの話をしている間も右側の椅子で同じように無表情な顔をして腰かけていた。その顔をみると、私はひどく可笑しくなり、おい女郎屋に行こうと叫んだ彼をその上にふと重ねあわせた。
話が終ってから、私はもう急用があるからという口実ですぐ工場を出ることにした。
駅まで彼は送ってきてくれた。今度はタクシーに乗せてくれた。
駅のホームに弱い午後の陽があたっている。
列車が遠くから来た時、彼は急に、
「おまえ、金に困ったら」
と突然、言った。
「俺に電話しろや。そしたら講演させてやるから」
車輛にのって、窓から彼の姿を見ていた。列車が動きだしたあとも、彼はまだホームにたっていた。午後の弱い陽のあたったホームが小さくなり彼の姿も消えた。