年頃になったお嬢さんたちに、
「君は恋人か、許婚者がいますか」
とたずねて、
「まだ、ございません」
と返事された時、すかさず、
「それでは君の未来の配偶者が今、この瞬間、何をしているか知りたくありませんか。彼は今、日本か、世界の何処かにいるわけですから……」
ときくと、必ずと言っていいほど、そのお嬢さんの眼が嬉しそうにかがやき、
「ええ、知りたいですわ、とても」
と返事するものである。
「知りたいですか。今、君の未来の夫が何をしているかを……」
「それは、もちろん」
「教えてあげましょうか」
「教えてください。おねがい」
「彼は今、ウンコをしておるのだ……」
私のような年齢になると、自分の未来の配偶者(そんなもんがいる筈はない)が今何をしているか、別に気にもならぬし、知りたくもない。
その代り、自分がいつ、どこで死ぬかをふと考えることがある。
やがて死は必ず訪れてくる。その時、自分は何歳ぐらいだろうか。
それは誰しもが中年になれば一度は考えることだ。
しかし、たいていの人はその時、自分はどこで死ぬだろうか、あまり想像しない。おそらく自分の家か、病院のなかだろうぐらいに漠然と思っているのである。
しかし家はとも角、病院の部屋で死ぬというのは普通、考えられている以上に悲惨なものなのである。
病院を多少でも知っている者は、あのムキだしの壁と、多くの人がそこで苦しみ、息を引きとった病院そなえつけのベッドで死ぬ気にはなかなか、なれぬだろう。
御臨終ですと医者が厳粛な顔をしていう。しかし彼は廊下に出ると、もうすぐにそのことを忘れてしまう。人の死を一つ一つ気にしていたら病院では仕事にならぬ。
二十分ほどの間、家族や知人が泣いていいが、やがて看護婦がストレッチャーを運んできて、あなたの死体をのせ、病院にある死体安置室に連れていってしまう。
これで一巻の終り。あなたの死はまるで小包みでも発送するような没個性的な扱い方をうけるわけだ。
ひょっとすると、野たれ死でゴミ溜めの横で死ぬほうが病院における死より個性的かもしれぬ。そう思えるくらいである。
あなたは自分が死んだ翌日も空が晴れ、街には自動車が列をなして走り、テレビではC・Mのお姉ちゃんが相変らず作り笑いをうかべて唄を歌っているのを考えると、妙に辛く悲しくないだろうか。あなたの死にもかかわらず、世界が相変らず同じ営みをつづけているのだと思うと悲しくないだろうか。
当り前の話だって。もしそういう心境をお持ちの方なら、悟りをひらいた方だ。たしかに我々が死んだって、社会や世界は昨日と同じ営みをつづけていくにちがいないのだが、それを思うと、やはり何だか辛く悲しいのは人情なのである。
私は留学していた頃、勉強につかれてくるとよく墓地に行ったものだ。仏蘭西の墓地は白い。そしてひっそりと静まりかえっている。
秋の午後、金色の葉の落ちる墓地の静かさ——あれは一体なんだろう。あれは死者たちの静かさだったのだろうか。