ずっと前、あるアパートで生活していた時のことです。
毎夜、真夜中に、私の部屋の上で、若い男の叫びがする。
「アアッ、アーッ。アアッ」
諸君は、早まってはいけない。彼は独身だし、その上、女を自分の部屋の中に引きずりこむような男じゃないよ。
にもかかわらず真夜中に、
「アアッ、アーッ。アアッ」
悲鳴とも絶叫ともつかぬ声をたてる。なぜ彼はそのような声をたてているのか。わかった人は小説家になれる素質がある。あんたはどう思いますかね。
「その男は頭が可笑《おか》しいんでしょう」
ダメ。そんな答えでは。彼はね、夜中に布団を引っかぶっていると、昨日、今日のあるいは過去の、自分のやった恥ずかしいこと[#「恥ずかしいこと」に傍点]が一つ一つ突然心に甦って、居てもたってもいられなくなり、
「アアッ、アーッ。アアッ」
思わず、大声をたてているのです。
何だ、そんなことか、と思われる人は気の強い奴。気の弱い奴なら、この夜の経験は必ずあるはずだ。
それがないような奴は、友として語るに足りぬ。