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ぐうたら人間学80

时间: 2020-10-31    进入日语论坛
核心提示:はき違えた正義感 私は昔、駒場というところに住んでいたが、拙宅のすぐ近所の金棒引きの婆は、A家では今日、鰯《いわし》を何
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 はき違えた正義感
 
 私は昔、駒場というところに住んでいたが、拙宅のすぐ近所の金棒引きの婆は、A家では今日、鰯《いわし》を何匹買った、B家では亭主のヘソクリがどこにかくしてあったなど、隣の情報をあっちこっちに触れまわるのであるから、近所の主婦たちはこれを快く思っていなかったが、彼女に反抗すればどんな悪口を言われるかもしれぬので、障《さわ》らぬ神に祟りなしという形でコワがっておったのである。いずれにせよ、この婆さんと主婦たちとは、隠微な形で仲がよくなかったのである。
 だが、ある日から、この主婦たちと婆さんとが一種の同志的結束と連帯感とを抱くようになった。原因は、婆さんが、すぐ近くのかなり立派な家に、一人の若い女性が引っ越してきたことと、その女性のところに事業家らしい男がチョコチョコやってくることを発見し、ただちに触れまわったからであった。すると、今までこの婆さんを快く思っていなかった主婦たちは、一様に道路の真中に集まり、
「お聞きになりまして。お虎婆さんに」
「わたくしも、たった今、聞いたばかりでございますのよ。驚くじゃありませんか」
「不潔なお話ですわ、あんなチャラチャラした洋服をきて、どこのお嬢さんかと思ってましたら、妾ですってね」
「子供の教育上、そんな家が近所にあってはお互い迷惑でございますわ」
 ケンケン、ゴウゴウ論じあっているうちに、彼女たちは一種の激しい正義感にとりつかれ、このお妾に断じてイヤがらせをすることが正しい人の行為だと思いこみ、しかもそのイヤがらせをする大役を、かの婆さんに一任したのであった。つまり、こうしてまるでピエール・ガスカールの小説に出てくるようなポンチ絵的正義感が生れ、ポンチ絵的連帯感が生じたのである。
 私はその光景をみて、昔、国防婦人会の糞婆たちになぶり者にされた時のことを連想したが、もともと臆病な上に、長いものには巻かれろ主義のグータラ性格の持ち主だから、あえて彼女たちをとめなかった。
 だが、一週間もたたぬうちに彼女たちとお虎婆は、マーケットに行く問題の女性にイヤミを言ったり、小学生たちにまで、あれは妾だよ、と教えたりしはじめた。こうなっては臆病者の私も断固、立ちあがったのである。
 断固、立ちあがって何をしたか。それは言うまい。話すまい。稔るほど、頭のさがる稲穂かなであるからだ。だが私はそのために彼女たちから随分、ひどいことを言われましたよ。妾の肩もつ三文文士、なんて陰口きかれてさ。しかし言うまい。言うまい。
 けれどもこの時私にはハッキリ気づいたことがある。人間は自分ができぬことを他人がやっておれば、癪にさわる。そしてその欲求不満をたやすく正義感に転化することができる。
 たとえば、この主婦連はなるほど妾という存在に腹がたったのでしょう。しかしそれ以上に彼女たちが腹をたてたのは妾が自分たちより「いいおべべをきて、いい家に住み、電気洗濯機を持っている」ということだったのだ。彼女たちは自分がいいおべべもいい家も持っていないから腹をたてたのであって、相手が妾ということは自分たちの物欲的怒りを転化させる恰好の口実だったにすぎない。
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