映画のあの場面は一種、どうにもならぬ人間の別離の哀しみを、小さな家のまずしい夜の食卓の光景は、人間のいじらしい幸福への願いを、急に感じさせるからにちがいない。
A君もこのワシも、自分ではいつも若い、若いつもりで今日まで毎日をぐうたら送ってまいりました。しかし、ぐうたらでも人生の集積というものは何処かにあるようだ。他人をそれほど不幸にもしなかったかわりに、だれをも幸福にしないぐうたらな集積をつみかさねているうちに、理屈ではなく、心で、気障な申しようだが、人間のいじらしさ、生きることの哀しさは、凡人は凡人並みにだんだん、わかってきたような気がするの。
そうだよ。情けない話だが、いたずらに馬齢をかさねて、ワシたちは結局、そのくらいのことしかわからなかったよ。しかし今、人生、黄昏にあたり、うしろをふりかえる時、それくらいのことしかわからんかったことも、それで仕方がなかったのだと、一種、諦めの気持で思うのでな。旅人が自分のトボトボと歩いてきたひとすじの道をふりかえる。夕暮の微光が山にも畑にもその道にもさしている。自分と同じように誰かが歩いている。あいつも旅をしておるのだと旅人はわが身から推して、その人の道中のことを考える。そんな心境に遂にわれわれもなったのだなあ。