諸君。諸君がもし生活に多少とも退屈し、おれはこのままでええんやろうかと、ふと思われることがあれば——、いやいや、きっと、そう思われるにちがいない。会社のかえり、西陽のさす街をひとり歩いておる時、夕立の終ったあとの雲をアパートの窓からみておる時——そう思われたならば、ワシは諸君に一つの場所に行ってみることをお奨めする。それは病院だ。できたら大きな古びた大学病院などがええ。
夕暮の大きな病院には、窓々に灯がひとつひとつともる。遠くからそれを見ていると、まるでうつくしい夜の客船のように目にうつるかもしれん。だが病院とは、生活のなかで他人にみせる仮面ばかりかむっているワシらが、遂に自分の素顔とむきあわねばならん場所だ。わしは長い間、病院生活をやっとったから、これだけは確実に言えるのだが、夕暮に灯がうるむ病院の窓では社会での地位や仕事がなんであれ、自分の人生をじっとふりかえる人びとが住んでいる。病苦のおかげでみんな、そうせざるをえんのでなア。
ワシらの生活には仮面をぬいで、自分の素顔とむきあおうとする時はそうざらにない。いや、ひょっとすると、素顔をみることが怖ろしいのかもしれんなあ。
いつも黒眼鏡ばかりかけている若い連中が、ちか頃、ふえたろうが。あの一人の野末陳平君にその理由をきいたことがある。そうしたら、こう答えたな。
「むこうの顔はこっちから見えるが、こっちの素顔は相手にわからんからね。それに黒眼鏡をかけると、自分が別の人間になったような気がする」