いつか、自意識ちゅうムツかしーいことについて、ちょっとふれたことがあるが、きょうはその話をすべい。
拙者《やつがれ》は自意識のとぼしい奴ア、どうも苦手だなあ。自意識なんて書くと、えらく難解にきこえるが、なに、たいていの人間がもっていることだな。
自意識が自分にどの程度あるか、どうか検査するにはだな、そうだな、たとえば、つぎのようなばあい、あんた、どうするか、考えてみるといいな。
君がだ、会社に出る。そしてまあオシッコがしたくなったので、便所にいく。ところが、トイレのいくつか並んだ朝顔の列に一人の老人がただいま用足し中であって、そのほかには誰もおらん。しかもだ、その用足し中の老人というのが、ほかならん君の会社の社長だった場合、君アどうするか。その朝顔の横に社長と並んでたつか、たたんか。入り口で迷うか、迷わんか。つまり自意識が活動するのは、このような時だなあ。(ムツカシイ哲学的用語ノ説明モ狐狸庵先生ニカカルト、コノヨウニ平タアク、庶民的ニ、ワカリヤスウク、ワカルダロ。ネ、ワカルダロ。それをことさらにチンプンカンプン、ひねくりまわして説明する哲学教授と比較せよ。まこと教養が身についているとは、このようなことをいうのである)