ある日、顔の四角な学生が我々のそばに来て靴を磨くと、
「俺も仲間に入れてくれねえか。俺、困ってんだ」
と言った。私は三雲とコソコソ相談しこの将棋の駒のような顔をした学生を断ることにした。三人では儲けが薄くなるからである。
この男が後のフランキー堺氏である。スクリーンで彼の顔を見た時、私は思わず、
「あッ。あいつだ」
と叫んだが、その後、フランキー氏と再会した時、彼もこの靴みがきの件を憶えていたのである。
大学を出たが就職口はなかった。ある日、新聞を見ていると「松竹助監督募集」という広告が出ていた。私は子供の時から映画スターに妙に憬《あこが》れる心理があり、撮影所などときくと薔薇《ばら》色の殿堂を感じていた。中学生の時、嵐寛寿郎の弟子になろうと思い、手紙を出して返事をもらえなかったこともある。
早速、願書を出して受験した。口頭試問の時、試験官は巨匠、吉村公三郎氏だった。助監督らしいのが私の前の受験生に、
「どんな本を読んでいるかい」
と訊ねると、その男は、
「野間宏を読んでます」
と答え、更に「野間宏の何を読んでいるかね」と追及されて「ウ、ウ、ウ」と呻《うめ》いた。それを後ろで見ていた私はすっかり、アガってしまい、同じ助監督から、
「どんな本を読んでいるかね」
ときかれた時、
「ギリシャのヘラクリトリスを読んでいます」
と出鱈目《でたらめ》を答えてしまった。今でも考えると私の頭の中から、なぜ実在もしない、こんな架空の名前が飛出したのかわからない。だがその助監督氏は、ふしぎにも、
「うん、あれは面白い」
と言った。今もって私はこの助監督がいかなる心境でかかる出鱈目な返事をしたのかもわからない。彼は私を助けてくれようとしたのか、それとも周りの試験官におのが学あるところを見せようとハッタリをやったのかもしれぬ。
その結果、私は落第してしまった。当時、この試験に合格した人に松山善三氏がいる。そしてもし私を松竹が採用してくれていたなら、私は今ごろ、岡田茉莉子さんや倍賞千恵子さんなどに演技をさせ「なんだ、それで女優のつもりか」と怒鳴れる身になれただろう。そしてあるいは彼女たちの一人と結婚し、プールもあり、便所なんかも四つぐらいある家にすみ、安岡章太郎や吉行淳之介や阿川弘之が遊びにくれば、便所が四つもあることを(彼等の家には一つしかない)自慢できる身になっていたかもしれぬ。
松竹にこうして落ちたあと、鬱々としている私を見て遠藤商会の仲間だった友人たちが、「奴を慰める会」をやってくれた。