当時、我々はアチコチで飲み歩いたが、飲み歩いたと言っても当時、学生や学生に毛の生えた連中が行くのは闇市のなかの飲み屋だった。焼いた鯨肉の臭いが尿や油の臭気といっしょにその闇市のなかにたちこめ、葦簀《よしず》張りの飲み屋ではコップ三十円の焼酎か、二十円のバクダンをあおるのである。
その日もそういう所をまわって、我々の一人が、
「ランボオという店に行こう」
と言った。小説家や芸術家が集まる店だと言うのである。私は酔っていたから、すぐに賛成をした。
ランボオは神田の冨山房のうしろにあった。この何の変哲もない酒場はしかし戦後文学を知っているものには忘れ難い場所であろう。そして私にとってもその後、このランボオに行くことで毎日の情熱を燃やすようになったのである。
我々が店に入ると、店は入口近くが狭く、奥が広くなっていた。そしてその広い場所に白いテーブルがおいてあって、その周りに五、六人の男が腰かけ、酒を飲んでいた。友人は私の耳に口をよせ、
「知ってるか」
と囁いた。知らぬと言うと彼は得意そうに、
「ほら、右に少し顔を妙に傾けた人がいるだろ。あれが野間宏。その隣の頭の少しはげた人は椎名麟三。三番目のキョトンとした人が梅崎春生。こちらに背をむけているのが佐々木基一と埴谷雄高さ」
そして彼は視線を窓ぎわに移し、窓ぎわのそばに椅子を二つ並べて、そこにうたた寝をしている男を見ながら、
「あの人は武田泰淳だよ」
と教えた。
怠け者の私だったが、その人たちの名は勿論、知っていた。戦後、これらの若い作家や評論家が矢つぎ早に登場して、次から次へと新鮮な作品を発表していた。これらの人の作品や評論はちょうど今の学生が大江健三郎のものをむさぼり読むように、我々に読まれていたからである。私はコワイものを見るように彼等を眺めていた。
その時、横の席から一人の女が出てきて何かを埴谷雄高氏に言い、突然、唄を歌いはじめた。私はこの雰囲気にすっかり感激感動してしまい、何て芸術家の集りは素晴らしいんだろうと滑稽にも思ったくらいだった。