教えられなくてもすぐ問題の柴田錬三郎氏はわかった。戦後まもない頃で他の人々が皆くたびれた洋服を着ているのにたいし、一人、真白なワイシャツと蝶ネクタイをしめ、縁なし眼鏡をかけて口をへの字にまげた人が真向いにいたからである。安岡(章太郎)はこの柴田さんの顔を「梅干を噛みしめているような顔」と書いていたが、これは言いえて妙である。
他の人が笑っても彼は口をへの字にまげたまま、「くだらん」という表情をたえずつづけていたし、特に私を驚かせたのは彼の黒々とした長髪だった。要するに縦から見ても横から見てもこの人は、勤め人とはどこか違う風貌と雰囲気とを持っていた。私はその時、「文士」とはこのようなものであるのだなという気がして、この間みた『三田文学』の「新人のいかに稚拙な原稿でもそれが真剣に書かれているならば、襟をただして読むであろう」という言葉をふたたび思いだしたのだった。
座がわいてもほとんど笑わない柴田さんのすぐそばに一人、柴田さん以上に——もうこれは頬も唇も絶対にうごかさぬ人がいた。その人はむかしの小学校の小使さんの着たような古い黒の詰襟の服を着ていたが、私はそれよりも彼の蝋のように蒼白な顔に驚いた。その人は陰鬱そうに大きく眼をみひらき、虚空の一点をじっと見つめている。まるで周りの者の話は彼の耳に入らぬかのごとくである。(こういう比較は失礼かもしれぬが、林家三平がいくらワメいても、観客を笑わせても、彼のアコーディオン伴奏者で絶対笑わぬ人がそばに立っている。あの人をみるたび、私はこの最初の日のこの先輩の顔を思いだす)
私は一体、この人は誰だろうと思っていると座の一人が、
「なあ、原民喜さん、そうじゃありませんか」
と話しかけた。驚いたことには話しかけられたにかかわらず、その原さんと呼ばれた人は返事をしなかった。石のように黙っていた。
会はどうやら前号の『三田文学』の合評会らしかったが、私にはよくわからなかった。会が終って原さんのところにいき、自己紹介をしたが、この人は私の顔を大きな暗い眼でじっと見つめたきり、ウンともスンとも言わなかった。
こうして『三田文学』の集まりに出られるようになると、余り人見知りをしない私はこれら先輩のところによく遊びにいくようになった。中でも私が一番、出かけたのはあの集まりで終始「笑わず」に口をへの字にしたままの柴田さんと、これは笑わぬどころか化石のごとく全く無表情のまま一言も発しなかった原民喜さんのところであった。その理由は色々あったが、私のようにシャベリまくる男には、こういう二先輩はまこと不思議そのものの存在であり、一体、なぜ口をへの字にまげて笑わぬのか、あるいは化石のように無表情なのか、それが知りたかったからである。
ところが柴田さんの家にたびたび行くようになると、彼、必ずしも笑わぬ人ではないことが判明した。柴錬さんにははなはだ恥ずかしがり屋の面があり、笑うとその顔に照れくさげな人なつっこい表情が浮ぶ。おそらく柴田さんはそれゆえに口をへの字にいつもまげているのかもしれない。
当時の柴田さんは奥さまが御病気で入院されていたため新宿柏木にお嬢さんと二人で住んでいた。今でこそあのあたりは家がこんでいるが、その頃は戦災で一面に焼け野ガ原となり、夏など、暑くるしくキリギリスの鳴くトウモロコシ畠に彼の家がポツンと立っていた。まだ直木賞をとっていなかったこの先輩にとっては、生活のために子供むけの名作物語を次々と書いている悪戦苦闘の時代であった。私がその彼のところに行ってはペラペラペラとしゃべりつづける間、錬さんは口をへの字にまげてそれを聞いており、最後にただ一言「くだらん」と吐き棄てるように言うのだった。
彼にとっては私のペラペラ話がくだらんのみならず、あり余る自分の才能をまだ発揮させてくれない世間とジャーナリズムにたいする不満をこの言葉にこめて言っているようだった。
当時、私は目白の女子大を出たある娘にゾッコン熱をあげはじめていた。その女性は当時、日本橋にあって川端康成氏や久米正雄氏が役員となっている鎌倉文庫という出版社に勤めており、その関係で柴田さんとも何となく知っているようであった。