私は彼女の退社時刻を狙ってはその勤め先のまわりをウロつき、彼女が出てくると電信柱のかげからあらわれて「汁粉のみにいこう」と誘っては、まだバラック建ての喫茶店で大熱弁をふるうのであるが、彼女はどうしても首を縦にふらない。私は親友の三雲夏生(現・慶大教授。本稿第二回目に出た男)に相談すると、三雲はシンコクな顔をして自分が言うてきかせようと言い、二人で彼女を屋台の焼鳥屋につれて行き、私が泣きマネをすると三雲が約束通り、重々しい声で、
「ああ泣いておるが、あなたは何も思いませんか」
と言っても、彼女は「何も思いません」と冷たい返事をするのだった。そこで三雲が、
「君は一体、どんな男に心ひかれるのですか」
とたずねると、初めてニッコリ笑い、
「柴田錬三郎さんみたいなしっとりした中年の人」
と答えたのである。
ムッとした私は早速、柴田さんのところに駆けていき、この中年男の魅力が一体どこにあるのかを今までとは違った眼で観察してみた。柴田さんは相変らず、キリギリスの鳴くトウモロコシ畠の一軒屋で、人も世も「くだらん」という表情で煙草をふかしながら子供向けの名作物語を書いていた。が、私はその横でジロジロ見てみると、彼は相変らず口をへの字にまげているのみならず、時折、鼻をフンフンとならしながら、卓上の煙草を一本とっては口にくわえ、細長い指でライターをパチンとつけるのである。何でもない仕草なのだが、そこにはいかにも人生に飽き飽きしたという雰囲気があり、それが一種の魅力になっているように私には思われた。
私はその娘のことは一言もしゃべらず、家に戻ると、鏡の前にたってさきほど見た錬さんの表情を思いだして口をへの字にまげ、煙草を横ぐわえにくわえてライターをパチンとつけ、鼻をフンフンとならしてみた。と、何となく自分にも中年男のしっとりとした魅力が出てきたように思われたのだった。