けれども、それから、しばらくして、彼の書いた小説にその場面が、変容されて使われているのを私は発見し、あらためてびっくりしたのである。どのようにそれは変容されて使われていたか。これは錬さんの小説技術の一ヒントになるかもしれぬので書いておこう。
一人の女が旅をしていた。彼女はある森のそばで雲助たちにつかまって乱暴されかかったのである。着ているものを次々とはがれ、あわや腰巻までとられた時、突然、むこうの叢から一つの笠が舞いあがり、それは裸にされんとした彼女のお腹の上にフワリとかぶさり、かくすべき所をかくしてくれたのである。そして叢から、一人の虚無僧がスックと立上ったのであった。
私はそれを読んだ時、思わず「ウム」とうなってしまった。そしてきいてみると、はたせるかな柴田さんは照れくさそうに、
「ああ、あの子供の輪投げを一寸、使ったのさ」
と答えた。子供の輪投げから、こうした場面を作れるというのは柴田さんでなくてはできぬことであろう。
私は自分にこのような面白い小説を作る才能はないとしみじみわかったので、二十枚ほどの地味な小説を書いてこの先輩に見てもらうことにした。「それが真剣に書かれているならば、襟をただして読むであろう」という彼の言葉を憶えていたからである。
忙しい錬さんだから、まだ読んでくれていないだろうと思ったが、矢もたてもたまらず二、三日して出かけてみると、錬さんは相変らず口をへの字にまげ机に坐っていたが引出しから私の小説をとり出した。みると朱筆がギッシリ入っている。私はその日、二時間、この先輩から小説のデッサンの仕方を教わった。その教わったことは今でもハッキリ憶えているし、今日『三田文学』の編集をやるようになって若い後輩の原稿を読むたび、自分にも、忙しくてもギッシリ朱筆を入れてくれた先輩があったことを思い出す。
この朱筆を入れてもらってから半年後に私は芥川賞をもらった。すぐ錬さんのところに報告にいくと、彼は私が今までみたことのないような笑顔で、
「ああ、とったな」
ただ一言、そう言ってくれたが、私は嬉しかった。芥川賞をもらった小説は錬さんに教えてもらったことを注意しながら書いていたからである。