その年の冬は原さんにとって長く、辛いものだったにちがいない。婦人雑誌などから高い稿料で注文がきても断るほどの彼は、収入も少なかったし、貯金も使い果していた。私はそんな彼を元気づけるため、少女をつれて原さんと三人で多摩川の河原に行き、茶店でおでんを食い、ボートを漕いだ。陰鬱な原さんの顔がその時、少し晴れ、少女はボートから手をだして、川の水をすくい、
「春が近いわ。水がこんなに暖かくなっているもの」
と言った。私は春がくれば、この日本を去って遠い国に勉強をしにいくのだなと思った。原さんはその時、ポツリと言った。
「あのネ、ボクは春になったら雲雀《ひばり》になって天に昇るかもしれないね」
少女も私も声をだして笑ったが、二人とも原民喜がその言葉で何を言おうとしているのか、わからなかったのである。
その春がやってきた。私の出発はいよいよ間近くなった。
明後日、ついに船に乗るという日、急に思いたって彼の下宿まで出かけた。原さんはその頃、神田を引きはらって吉祥寺に下宿していたのである。その吉祥寺駅までの道を一緒に歩きながら、彼は暗い顔をして呟いた。
「あのネ、ぼくもあることを近くやるけどね」
「あること? 何をやるんですか。長編を書くんですか」
うかつにも私はそのあること[#「あること」に傍点]を彼の自殺とは気づかなかった。仕事だとばかり考えていた。
「今は言えないね。やがて、わかるだろ」
彼は駅にくるまでついにそのあることを伏せた。さようなら、と言い、うしろをふりかえると鳥打帽に灰色の古背広をきた彼の背中がさみしかった。
出発の日は雨がふっていた。私は一人で横浜にいくと、先輩や友人たちが沢山、見送りに来てくれていた。今とちがって、敗戦国の日本の青年が海外に行くのは至難の頃だったからである。どこの国にも日本大使館はなく、私はビザを手に入れるまで一年かかった。
私の船室は船室といえる場所ではなかった。それは船荷をつむ船艙《せんそう》であった。そしてそこには、ベトナムから日本兵の戦犯を護送してきた仏蘭西外人部隊の、顔に白い入墨をした黒人兵が二十人ほどゴロ寝をしていた。送りにきてくれた柴田錬三郎氏が、私をそっとものかげによび、
「お前、食われてしまうぞ。仏蘭西につく前に」
真面目な顔をして忠告してくれたほどである。
デッキにもたれていると、ドラの鳴るのがやみ、船がしずかに岸壁から離れはじめた。先輩たちの真中に、鳥打帽に灰色の古背広を着た原さんがじっとこっちを見つめているのに気がついた。
「おーい、原さあーん」
と私は手をふったが、彼はまるでその声も耳に入らぬように一点を見ていた。『三田文学』の集まりではじめて彼に出合った時と同じように何か遠いものを見つめている表情である。原さんは私の船出の場面を絶筆ともいうべき作品のなかに書いているが、原さんはその時、こう思っていたのだ。「去っていくのは彼ではない、わたしなのだ」と。原さんは陸を静かに離れていく私の船をみながら、間もなく自分が去っていくことを考えていたのである。
翌年の三月の夜、彼は吉祥寺の国電線路に身を横たえて、電車のくるのをじっと待った。そして間もなくその生命を断った。
その時、私は仏蘭西のリヨンという町で独《ひと》りぽっちの、かなり辛い留学生活を送っていた。日本人はこの町には一人しかいなかった。もちろん領事館も大使館もパリにはなかった。