その日から少女と原さんとの父と子のような交遊がはじまった。少女は夜おそくまで机の前に坐っている原さんの部屋の窓をコツコツと叩いてふかした芋を手わたした。すると原さんは書棚から本をだして、
「これ、読みなさい」
と貸し与えるのだった。
そのくせ彼は自分一人ではとてもこの少女に会いにいくことはできなかった。その都度、彼は我々後輩に一緒についていってくれと頼むのだった。当時、原さんの面倒をアレコレみていた元『群像』編集長、大久保房男氏が一番そのデートに立会わさせられた。大久保氏は後々までも「あんなにアホくさい役目をさせられたのは初めてだった」と言っていたが、それは無理もなかろう。喫茶店でその少女を前にしても原さんはただ牡蠣《かき》のように口を閉じているきりで、立会わされた大久保氏はそのたびに、原さんの代りにしゃべらねばならず、こんなアホくさい役目はないだろう。
私も一度、原さんにたのまれて少女の家まで彼をつれていったが、彼女はあいにく、風呂屋にいって留守だった。
「帰りましょう」
と言うと原民喜は、
「あのネ、風呂屋は近いけどネ」
と小声で言う。仕方なしに風呂屋まで伴い、女湯の前でじっと立っていると、金ダライを持って出てくる女客がうさんくさそうに我々を眺めるのでホトホト閉口したことがあった。
断っておくが、原さんのその少女にたいする愛情は父親のようなものであり、それ以外ではなかった。地上の地獄絵をみた彼はそんな少女が二度と、火にやかれ、むごたらしい人生を終ることのないのを、せつなく願っていたのであろう。そしてその少女の存在は、ちょうど原さんの氷のような孤独な夜にわずかだが小さな灯をともす洋燈の役割をしたのだろう。
だが、それがいつまでも続くものではないことを彼は知っていた。あの地獄絵を語った作品を完成し、その静かな証言をおえた彼には、あとは死を急ぐ気持が少しずつ起っていたにちがいない。しかし彼が死を決心したことを、我々周りのものの誰もが気づかなかったし、感じもしなかった。私自身といえばその年、思いがけぬことから仏蘭西《フランス》留学がきまり、その嬉しさと準備とで夢中になっていた。原さんの心の秘密を見ぬく余裕がなかったのである。