だから亀井先生が癌にかかられて、かつて私の入院した病院にはいられたと知った時、私は自分の表情に感情があらわれないかと考え、見舞に伺うのがためらわれた。明日、行こう、明日、行こうと考えたのち、やっと勇気を出して、その病室の扉を叩いた。先生は窓ぎわに向って何か書きものをしていられたのだが、私を見ると微笑された。そして口ごもっている私に間髪を入れず、
「君、ぼくは癌なんだよ」と言われた。
「しかし手術で完全にとれたんだ。あとはもう大丈夫だ」
「そうでしたか」
私はホッとして今までの胸のしこりが一時に解放されたような気がした。
「それは良かったですね。早期発見だったのですね」
帰り道この会話を噛みしめ、急に、先生が進んで自分の口から癌だと言って下さったのは、見舞客の苦しさをとり除くためではなかったのかと気がついた。おそらく先生は青野氏や高見順氏や正宗先生などを見舞にいかれるたびに私と同じ辛さを味わわれたにちがいない。だからその自分がかつて感じた辛さを見舞客に与えないため、進んで「癌だ。手術でとれた。大丈夫だ」と言われたのではないかと考えたのだった。
その頃から私は先生の本を少しずつ再読してみた。そして先生が決して本質的には「強者」ではなく「弱者」ではないのかと思いはじめた。先生の書かれた宗教論はことごとく、読者にむかって言いきかせているのではなく、御自分の弱さにたいする叱咤の声であるような気がしてきた。先生は宗教と信仰のためには芸術を拒否する内村鑑三の強靭さをほめたたえられた。しかしそれは先生が内村鑑三のような強者ではないからである。先生は宗教のために芸術を結局、棄てることのできなかった文学者だった。
先生は基督教のなかに、信仰のきびしさへの要求を好んでみつけられた。そしてそれを賞讃された。しかし先生は基督教徒にはなれなかった。この宗教のもつ父性的厳格さよりも親鸞《しんらん》のとくような母性的なやさしさに先生は結局、むすびつかれたのである。
「自分は親鸞の教えを信ずるものである」という言葉を後期の作品のなかから発見した時、私は先生の傷を感じた。先生は自分の弱者であることを自覚されつつ、生涯強者たるべく努め励まれた方だった。
先生が二度目の手術を受けられて、しばらくしてからのことだった。文壇のあるパーティで私は先生の姿をみた。ひどく痩《や》せられ、顔色も蒼白かった。
「君。麻酔というものはいけないね。あれはいけない」
先生は私に突然言われた。
「どうしてですか」
「麻酔をかけられたため、ぼくは手術の時、死と向きあうよい経験を失ってしまったよ」