数年前のこと、わが風流の友、講談研究家の田辺|日念暮亭《ひねくれてい》がその庵を増築し、客を招いた。
私はその祝いに何を持っていこうかと思案した末、ポンと膝をたたいて、
(そうだ。あのレコードがいい)
レコードと言うとメンデルスゾーンとかハイドンなどと考えて頂いては困る。そんな無風流なものを狐狸庵山人が友人に持参する筈があろうか。私が日念暮亭主人のために進呈しようと思ったのは「寝小便のトマるレコード」と「タバコの嫌いになるレコード」の二枚だったのである。
この珍妙なレコードをどのように入手したか。その一ヵ月前、私は某週刊誌をパラパラ見ていると、このレコードの広告が眼についた。発売元はN催眠学会という余り聞いたことのない会社だったが、推薦者に佐々木久子さんの写真まで載っていたのでふと好奇心にかられた。「なんの労力も入《い》りません。あなたが眠っている間にこのレコードをかければ、御病気も悩みもすべて治るのです」とその広告には書いてあった。
注文一週間後入手したのはレコードというより、薄っぺらなソノシートで、たとえば「タバコの嫌いになるレコード」は表が男性用、裏が女性用、試みに男性用のほうをかけてみると、甘ったるい女の声が、
「あなたは……タバコが大嫌い。タバコは苦くてまずいの。あなたは……タバコが大嫌い。タバコは苦くてまずいの。あなたは……」
繰りかえし繰りかえし同じ言葉を呪文のように呟いている。使用法をみるとこれを眠りっぱなに、かけろ、と書いてある。つまりこれを毎日毎日、たえず聞いていれば次第に自己暗示にかかり、本当にタバコが嫌いになってくるというのである。
私は「タバコの嫌いになるレコード」のほか六枚ほど買ったが、寝床につけばバタン、グウの身には肝心の声を耳にするかしないうちにもう眠りについていて一向に役にたたん。その上、「精神病患者、テンカンの方は睡眠二十分後にかけて下さい」というただし書が癪にさわり、押入れの中にエイッと放りこんでしまった。