新選組では、かねて京の道具屋に命じて具足《ぐそく》をそろえておいた。戦さの場合には助勤以上が着る。いずれも骨董品《こつとうひん》にちかいものだ。
近藤は二領もっていた。
歳三も、ちゃんと買ってある。もっとも、幹部一同が着用したのは、あとにもさきにも、このときだけだった。
助勤で出雲《いずも》浪人武田|観柳斎《かんりゆうさい》(のち隊内で処断)という者が武家有職《ぶけゆうそく》にくわしいので一同を指導し、具足のつけ方、武者|草鞋《わらじ》のむすび方などをいちいち教えてまわった。
近藤の着付けは、武田が手伝った。
やがて兜《かぶと》の緒をしめおわった近藤の姿をみて、
「軍神|摩利支天《まりしてん》の再来のようでございますな。いや、おたのもしゅうござる」
と巧弁なことをいった。
歳三は、この武田観柳斎がきらいだった。この男の近藤に対する歯の浮くようなお世辞をきくと、体中が総毛だつ思いがした。
「土方先生も、お手伝いしましょう」
と観柳斎がすり寄ってきたが、歳三はにがい顔で、
「要らん」
とだけいった。もっとも観柳斎のほうも、つねづね歳三を怖れて話しかけないようにしている。
「ではご勝手に」
と、あらわに不快をうかべて近藤のそばへもどった。近藤は大将気どりをするだけあって、おべっかには弱い。いい気持になって、観柳斎の巧弁をきいている。
(油断のならん男だ)
歳三も、不快だった。余談だが、観柳斎はこの年の翌々年の秋、薩摩屋敷に通敵し、しきりと隊の機密をもらしていたことが露われ、近藤、歳三合議の上、隊中きっての使い手斎藤一の手で斬られている。
歳三は、器用な男だ。はじめてつける具足だが、てきぱきと着込んでしまった。陣羽織を着、かぶとは後ろへはねあげた。
沖田総司がやってきて、
「ああ、五月人形ができた」
とよろこんだ。
歳三は、返事もしない。観柳斎によれば近藤が摩利支天で、自分が五月人形とは、あまり|わり《ヽヽ》があわない。
「総司、支度ができたか」
「このとおりです」
沖田ら助勤は具足をつけた上に、隊の制服|羽織《はんてん》をはおっている。
「お前はわかっている。みなはどうだ」
「もう、庭に出ていますよ」
歳三は、出てみた。
なるほど、そろっている。平隊士は、鎖帷子《かたびら》を着込んだ上に撃剣の革張り胴をつけ、その上に隊服を羽織り、鉢金をかぶった者、鉢巻だけの者、まちまちだった。
この夕、守護職屋敷から使番《つかいばん》がきて、
「竹田街道を伏見から北上する長州軍本隊を九条河原|勧進橋《かんじんばし》付近で押えること」
という部署を伝えた。
「長州の本隊を?」
近藤はよろこんだ。おそらくこの竹田街道勧進橋が最大の激戦地になるだろうとおもったのだ。
「歳、本隊のおさえだとよ」
「そうか」
小さくうなずいた。歳三には、疑問がある。が、この使番の前ではいわなかった。会津藩に恥をかかせることになるからである。
「陣割りはこうです」
と、使番はくわしく伝えた。その陣地における友軍は、会津藩家老神保内蔵助利孝がひきいる同藩兵二百人。備中浅尾一万石の領主で京都見廻組の責任者である蒔田《まきた》相模守広孝が幕臣佐々木唯三郎以下見廻組隊士をひきいて三百人。それに新選組。
出動隊士はわずか百人余である。歳三はとくに腕達者を厳選し、精鋭主義をとった。あとは屯営の留守と諜報のためにつかった。
竹田街道勧進橋をはさんで鴨川の西岸に布陣したのは、元治元年七月十八日の日没すぎであった。
赤地に「誠」一字を染めぬいた隊旗を橋の西詰めに樹《た》て、そのまわりにさかんに篝火《かがり》を焚いた。旗は篝火に照らし出され、敵味方の遠くからでも、そこに新選組が布陣していることがわかった。
歳三は、洛中洛外の八方に諜者を走らせ、しきりと味方、敵の動向をさぐった。この男が、故郷の多摩でやった喧嘩のやりかたとおなじであった。
「おかしいな」
と疑問がいよいよ濃くなった。幕府方の兵力配置が、である。
幕府(京都守護職)は、会津、薩摩の二大藩を主力として、ほかに、大垣、彦根、桑名、備中浅尾、越前福井、同丸岡、同|鯖江《さばえ》、丹後宮津、大和郡山、津、熊本、久留米、膳所《ぜぜ》、小田原、伊予松山、丹波綾部、同|柏原《かいばら》、同|篠山《ささやま》、同園部、同福知山、同亀山、土佐、近江仁正寺、但馬|出石《いずし》、鳥取、岡山など三十余藩の兵を動かしている。兵力は四万。
長州側は、主として嵯峨(天竜寺が中心)、伏見、山崎(天王山が中心)の三カ所に屯集し京に入る機をうかがっているのだが、兵力はそれぞれ数百人ずつ、あわせて千余で、その点では問題はない。が、その主力部隊はどこかということであった。
幕府は、「伏見」とみた。だから、会津、大垣、桑名、彦根といった譜代大名を配置し、新選組もそれに含めた。
理由は、伏見に屯集している長州兵が、家老福原越後に率いられているからである。
「が、強いのは嵯峨じゃないか」
と、歳三は、近藤にいった。
「長州はなるほど総大将を伏見においているが、これは見せかけで、いざ京都乱入となれば嵯峨が意表を衝いて働くんじゃないか」
「なぜわかる」
「嵯峨には諸藩脱藩の浪士がおり、その大将は長州でも剛強できこえた来島又兵衛だ。それに諜報では、めっぽう士気があがっているという。しかし総大将のいる伏見はちがう。その旗本衆は、長州の家中の士で組織された選鋒隊《せんぽうたい》だ。こいつらは代々高禄に飽いて戦さもなにもできやしないよ。そういう弱兵を相手に、これだけ大げさな陣を布く必要がないよ」
伏見の押えといえば、新選組を含んだ勧進橋陣地だけではない。その前方の稲荷山には大垣藩、桃山には彦根藩、伏見の町なかの長州屋敷に対しては桑名藩、さらに遊軍として越前丸岡藩、小倉藩の二藩を配置するというものものしさである。
「こいつは裏をかかれるさ」
歳三は、爪を噛んだ。近藤にはよくわからない。
「まあ、上《かみ》できめた御軍配だ。いいではないか」
「しかし近藤さん。この勧進橋じゃ、目がさめるほどの武功はころがって来ないよ」
「かといって歳、部署をすてて嵯峨へ押しだすわけにも行くまい」
「まあ、機をみてやることだな」
歳三は、それっきりこの会話をうちきった。
はたして、歳三の言葉どおりとなった。
伏見に屯集していた長州藩家老福原越後が行動を開始したのは、その日の夜半である。
最初、大仏《だいぶつ》街道をとって京に入ろうとしたが、勢いが攻勢的でなかった。温厚な福原越後はあくまでも出戦ではなく、禁裡へ陳情にゆくという構えをすてなかった。ただ仇敵会津中将松平容保だけは討つ(この斬奸状は、すでに長州藩士椿弥十郎をして諸方にくばってある)。
北上する福原の軍五百は、途中、藤ノ森で、幕軍先鋒の大垣藩(戸田|采女正《うねめのしよう》氏彬《うじあきら》)がかためる関門にぶつかった。
馬上小具足に身をかためた福原越後は、
「長州藩福原越後、禁中に願いの筋あって罷《まか》り通る」
とよばわっただけで難なく通過した。
大垣藩兵は、黙然と見おくった。この藩は戸田采女正が藩主だが病いのため小原仁兵衛が代将になっている。小原は鉄心と号し当時すでに高名な兵略家で、とくに洋式砲術にあかるかった。
だまって通過させ、長州軍が筋違橋《すじかいばし》(関門から北へ四百メートル)を渡りきろうとしたとき、にわかに銃兵を散開させて後ろから急射をあびせた。
たちまち銃戦がはじまった。
十九日の未明、四時前である。
「歳、はじまったらしい」
と、近藤は闇のむこうの銃声をあごでしゃくった。
「あの方角なら藤ノ森ですね」
と、耳のいい沖田総司がいった。
「藤ノ森なら、大垣藩だな。鉄砲の大垣といわれたほどの藩だから相当やるだろう」
近藤は、武田観柳斎に作らせた長沼流の軍配をにぎって、落ちついている。
(ちえっ、大将気どりもいいかげんにしたらどうだ)
歳三はいらだっていた。近藤はちかごろ鈍重になっている。すぐ歳三は下知して探索方の山崎烝を走らせた。同時に、会津隊の神保内蔵助の陣からも使者が走った。
山崎烝は馬上に身を伏せて走った。
藤ノ森のある大仏街道は竹田街道と並行し、その間をむすぶ道は田圃道しかない。
山崎も放胆な男である。馬乗り提灯もつけず闇のなかを、藤ノ森の松明の群れと銃火をめあてにめくら滅法に走った。
大仏街道の戦場に到着すると、
「大垣藩の本陣はどこか。新選組山崎烝」
と、銃弾のなかで馬を乗りまわした。そのとき、二、三弾、耳もとをかすったかと思うと、槍をもった兵がむらがってきた。
——こいつ、新選組じゃと。
あっ、と山崎はいそいで馬首を南にめぐらせた。長州兵の真直中《まつただなか》にとびこんでしまったらしい。
馬上から、一人斬った。たてがみに顔をこすりつけて走った。長州・大垣が路上でほとんど錯綜《さくそう》していて、両陣の区別がつかない。
「使者、使者」
山崎は必死に叫びながら走った。やがて藤ノ森明神の玉垣の前で、大垣藩の大将小原仁兵衛に出あった。
「新選組使番」
山崎は馬からおりようとした。しかし小原は山崎を鞍へ押しあげて、
「すぐ援兵をたのむ。長州もなかなかやる」
あとでわかったことだが、この長州きっての弱兵部隊は、大垣の銃火と突撃で何度も崩れたが、そのつど、同藩士の太田市之進が陣太刀をふるって叱咤《しつた》し、
——退くなっ、退くと斬るぞ。
と、すさまじい指揮をしていたという。太田市之進は、嵯峨方面の隊長の一人だが、福原越後に乞われて開戦のちょっと前に臨時隊長として駈けつけたものだった。
やがて山崎が帰陣して報告すると、歳三は近藤を見た。
近藤はうなずいた。
すぐ馬上の人になった。
「筋違橋だ」
近藤はただそれだけを下知した。各組長はそれだけでわかるまでに呼吸があっていた。筋違橋の北詰めから攻めて、長州兵を夾撃《きようげき》するのである。
会津隊も、見廻組も動きはじめた。
が、戦場についたときは、長州兵は自軍の死体をすて、数丁南へ算をみだして退却していた。大将の福原越後自身、頬を横から撃たれ、顔を血だらけにして伏見の長州屋敷までもどったが、ここでも大垣兵の追撃に耐えることができず、さらに南へ走って、山崎の陣営(家老益田越中)に駈けこんだ。
すでに朝になっている。
近藤、歳三ら新選組が敗敵を追って伏見に入ったときは、彦根兵が放った火で、伏見の長州屋敷は燃えていた。
(あとの祭りさ)
歳三は不機嫌だった。いたずらに、大垣、彦根藩に名をなさしめている。
そのころ、京の西郊にある嵯峨天竜寺の長州軍八百は、家老国司信濃にひきいられて京都にむかって侵入していた。
歳三の予想どおり、この部隊は、伏見のそれとは別国人のように勇猛だった。先鋒大将は来島又兵衛、監軍は久坂玄瑞で、隊には今日をかぎり命を捨てようという諸藩の尊攘浪士が多数まじっている。
総大将国司信濃はわずか二十五歳の青年ながら、風折烏帽子《かざおりえぼし》に大和錦の直垂《ひたたれ》、萌黄縅《もえぎおどし》の鎧、背に墨絵で雲竜《うんりよう》をえがいた白絽《しろろ》の陣羽織、といったいかにも大藩の家老のいでたちで、馬前に、
尊王攘夷
討会奸薩賊《とうかいかんさつぞく》
の大旆《たいはい》をひるがえして押し進んだ。幕府は嵯峨方面の備えをほとんどしなかったために途中さえぎる者もなく洛中に入り、御所にむかって進み、国司の本隊がいまの護王神社の前に到着したときは未明四時ごろである。
そこで国司は、戦闘隊形をとった。来島又兵衛に兵二百をさずけて蛤御門に進ましめ、児玉民部におなじく二百をつけて下立売門《しもだちうりもん》に突進せしめた。
国司の本隊は中立売門《なかだちうりもん》へ。
世にいう蛤御門の戦いはこの瞬間からはじまる。伏見で陽動して幕軍をひきつけていた長州側の作戦は奏功した。
国司は中立売門まで進んだとき、一橋兵《ひとつばしへい》に遭遇した。一橋兵から発砲した。
長州は、それを待っていた。禁裡周辺で自藩から発砲すると賊徒のそしりをまぬがれない。
国司信濃は、射撃、突撃を命じた。一橋兵は、ひとたまりもなく敗走した。
さらに筑前(黒田)兵と遭遇した。たがいに発砲したが、筑前は長州に同情的だったためことさらに退却した。
やがて長州軍は中立売門をおしひらいて一気に御所へ乱入した。門のむかいは公卿御門であり、会津藩の持場である。
国司は定紋を見て、
「あれが会津じゃ。みなごろしにせよ」
と下知した。もともと禁門の政変から池田屋ノ変にいたるまでのあいだ、徹頭徹尾長州の敵にまわってきたのは会津藩である。
長州の突撃はすさまじかった。会津兵はばたばたと斬り倒された。
そのうち蛤御門で砲声があがり、来島又兵衛の二百人が討ち入った。ほとんど同時に児玉民部の二百人も、下立売門から突入した。かれらの目的は戦闘の勝利ではない。会津、薩摩藩を討つことである。
その刻限、新選組は伏見にいた。
歳三が京の市中に散らしてあった探索方が馬で伏見まで駈けつけ、御所の合戦を急報した。報らされるまでもなく京の空にえんえんと火炎があがっている。
(みたことか。幕府の手違いだ)
歳三は近藤につめよった。
「京へ引きかえそう」
「歳。みな疲れている。いまから京へ三里、駈けたところでどうなるものでもない」
「駈けるのだ」
歳三は路上に突っ立ち、いまにも駈けだしそうな身がまえでいった。陽は次第に高くなりつつあるが、隊士たちは、家々の軒端にころがって眠りこけている。敵を追うばかりで一度も接戦はしなかったが、昨夜来、一睡もしていない。
「これで、働けるか」
近藤は、いった。
「いや、働かせるのだ。かんじんの戦場に新選組がいなかった、という風聞に、おれは堪えられぬ」
せっかく、軍事団として組織をかえつつあった矢先ではないか。
「歳、あせるものではない。われわれに武運がなかった。ここはそう思え」
近藤は、大将らしくいった。しかし、と歳三は思うのだ。天子の奪いあいというこの一戦に、御所に居ないというのはどういうことだ。あきらめられることではない。
「土方さん。——」
沖田総司が、向いの家からにこにこ笑いながら出てきた。手に、黒塗りの桶をかかえている。
「どうです。あがりませんか」
「なんだ」
にがにがしそうにいった。沖田は、歳三の鼻さきへ桶をつきつけた。この鮨特有のひどい悪臭がただよった。
「鮒鮨《ふなずし》ですよ。土方さんの好物のはずだ」
「いま、いそがしい。お前、食え」
「私は食べませんよ。こんなくさいもの、土方さんでないと食べられるもんか」
「みんなにわけてやれ」
「たれも食いつきゃしませんよ、新選組副長以外は」
「総司。何を云うつもりだ」
歳三は、仕方なく苦笑した。沖田は、鮨にかこつけて何かをいっているつもりらしい。
ほどなく、長州の敗北が伝わった。来島又兵衛は奮迅の働きののち、馬上で自分の槍をさかさに持ってのどを突き通して絶命し、久坂玄瑞、寺島忠三郎は鷹司屋敷で自刃、長州軍の大半は禁裡の内外で討死し、国司信濃はわずかな手兵にまもられて落ちた、という。
幕軍は敗敵捜索のためにしきりと民家を放火してまわり、このために京の市中は火の海になり、煙が天をおおって伏見の空まで暗くなった。
長州の敗兵は山崎まで退却し、ここで最後の軍議をひらいた。
天王山に籠っていま一度戦さをしようという議論も出たが、容易に決せず、ついに国許へ退却するという案におちついた。即刻下山し、西走した。
が、山崎の陣に残った者もいた。真木和泉守がひきいる浪士隊のうち十七人である。山崎本陣の背後の天王山にのぼり、二十一日、山頂に例の「尊王攘夷」「討会奸薩賊」の旗をひるがえした。
新選組が先陣をきって駈けのぼったときは、すでに十七人が割腹絶命したあとだった。
「——武運がなかった」
近藤がいった。
天皇を奪えなかった長州軍もそうだったろうが、その長州兵と一戦も交えることができなかった新選組にとっても武運がなかった。
隊は二十五日、壬生へ帰営。
平素の市中見廻りについた。京の市中は大半、このときの戦火で焼けてしまっている。