男の典型を一つずつ書いてゆきたい。そういう動機で私は小説書きになったような気がする。べつに文学とか、芸術とかという大げさな意識を一度ももったことがない(小説が本来、芸術であるかどうか)。
男という、この悲劇的でしかも最も喜劇的な存在を、私なりにとらえるには歴史時代でなければならない。なぜならば、かれらの人生は完結している。筆者とのあいだに時間という、ためしつすかしつすることができる恰好な距離がある。
土方歳三という男の人生が完結してから、ちょうど百年になる。この男は、幕末という激動期に生きた。新選組という、日本史上にそれ以前もそれ以後にも類のない異様な団体をつくり、活躍させ、いや活躍させすぎ、歴史に無類の爪あとを残しつつ、ただそれだけのためにのみ自分の生命を使いきった。かれはいったい、歴史のなかでどういう位置を占めるためにうまれてきたのか。
わからない。歳三自身にもわかるまい。ただ懸命に精神を昂揚させ、夢中で生きた。そのおかしさが、この種の男のもつ宿命的なものだろう。その精神が充血すればするほど、喜劇的になり、同時に思い入れの多い悲劇を演じてしまっている。
武州日野宿石田、というのがこの男のうまれた里である。
いまは東京都下日野市石田という地名になっているが、付近に多少の近代建築ができているほか、風景はかれがうまれたころとほぼかわりがない。武蔵野特有の真黒いポカ土と雑木林の多い田園である。
その生家を二度訪ねた。姿のいい村のなかに、大きな農家がある。
「お大尽《だいじん》さんの家なら、あすこです」
と、村の若い人が、そんないいかたで土方家をおしえてくれた。歳三の兄の曾孫という温厚な初老の当主が、応対してくれた。
「ええ、このへんでは、トシサン、トシサンと呼ばれていました」
大きな大黒柱がある。高さ四尺ばかりのあたりがあめ色に光っていた。柱は、湯殿にちかい。
「湯からあがりますと、トシサンはこの柱を相手に角力の稽古をしていたそうです」
庭に矢竹が植わっている。
「あれを植えたんだそうです。おかしな子だったんでしょうな、百姓の子のくせに、武士になるのだといっていました。ええ、矢竹は武士の屋敷にはかならず植えられていたそうで、真似たのでしょう」
歳三はこの生家に、京都時代に使ったという和泉守兼定の一刀と兜の鉢金などをのこしていた。鉢金には、刀傷があった。
歳三の姉の曾孫が当主になっている佐藤家は日野の甲州街道ぞいにある。当主は、
「維新後は、肩身のせまい思いをした、と祖母がいっていました」
と微笑したが、その容貌が、写真で歳三の顔にもっとも似ていた。
「眼もとの涼しい顔で、役者のようだった、といいます」
幾日か、かれの故郷のあちこちを歩いた。
多摩川の支流の浅川という河原で、とげのある薬草も摘んでみた。かれは少年のころ村人を指揮して家業の薬草とりをしたそうだが、あるいはかれの天才的な組織作りは、そういう労働の経験からうまれたものかもしれない、ともおもった。
「おそらく、そうでしょう」
と、土方家の当主もいわれた。こまかくその薬草の採集から製造までの工程もおしえていただいた。百人ほどの人数が、部署部署にわかれて複雑に動きまわるのを指揮するのは大変な手腕の要るものだという。
歳三は、それまでの日本人になかった組織というあたらしい感覚をもっていた男で、それを具体的に作品にしたのが新選組であったように思われる。その意味だけでいえば、文化史的な仕事を、この男の情熱と才能はなしとげたのではないか。