歳三、右へ剣を寄せた。
頭上は、越前福井藩邸の門の屋根。
しなやかな|たる《ヽヽ》き《ヽ》のむれが、美人の手を反らせたようにかるくたわみ、軒を雨中の闇に突き出させている。
「奸賊」
数語ののしりながら、歳三にせまった影には、ひどい十津川《とつがわ》なまりがあった。ちかごろ、京には、大和十津川郷の郷士が多数流れ入っている。
(十津川者か)
歳三は、平星眼《ひらせいがん》。
癖で、剣尖をいよいよ右へ右へと片寄せながら、左手のその白刃には眼もくれない。
余談だが、土佐の田中|光顕《みつあき》(のちの伯爵)が国もとを脱藩して京にのぼったころの思い出を、昭和十年ごろ、高知県立城東中学校で講演したそうだ。
——新選組はこわかった。とりわけ、土方歳三はこわかった。土方が隊士をつれ、例のあの眼をぎょろぎょろ光らせながら、都大路をむこうからやってくると、みな、われわれの仲間は、露地から露地へ、蜘蛛《くも》の子を散らすように逃げたものだ。
その歳三を討《や》る。
この十津川者、勇気があろう。
あとは、雨中で遠巻きにしている。
接近しているのは、右手の七里研之助と、左手のこの十津川者だけ。
ぱっ、と十津川者が、上段から撃ちかかった。
歳三は剣をあげ、背後の柱へ三寸ほどさがった。十津川者の太刀が、歳三の右袖|左三巴《ひだりみつどもえ》の紋を斬って地を摺《す》るほどに沈んだ。
男の上体が、ひらいた。
瞬息、歳三の太刀が、十津川者の右肩を乳まで斬りさげた。
が、歳三は、前へころんだ。
十津川者を斬ったと同時に、右手の七里研之助が猛烈な突きを入れてきたのである。
逃げるしかない。
死体に蹴つまずいてころんだ。
すぐ起きた。
その頭上へ、七里研之助の二の太刀が襲った。
受けるいとまがない。
避けるために、もう一度ころんだ。歳三の体はすでに門を離れ、雨中、堀ばたにある。
背後は堀で安心だが、左右に、小楯にすべき樹一本も見あたらない。
「龕燈《がんどう》を用意しろ」
七里の落ちついた声が、仲間に命じた。
歳三が、たったいままで砦《とりで》にしていた藩邸の門の軒下で、龕燈が用意された。
「照らしてやれ」
七里が、低い声でいった。
ぱっ、と、龕燈の光りが、堀端に立つ歳三の影を照らした。
「歳三。武州以来の年貢《ねんぐ》のおさめどきのようだな」
「そうかな」
歳三は、相変らず右寄りの平星眼。声の低いわりには、両眼がかっとひらいている。
いつの喧嘩のときでも、死を覚悟している男だ。
「今夜こそ、八王子の仇《あだ》を討たせてもらう」
七里研之助は、上段のまま、悠々とせまった。
その間合を、はげしく雨がふりはじめた。
雨脚が地にしぶき、龕燈の光りのなかで白い雨気がもうもうと立っている。
「七里。長州のめしはうまいか」
「まずいさ」
七里も落ちついた男だ。
「しかし、土方」
用心深く間合を詰めながら、
「いまに、旨《うま》くなる。汝《うぬ》ら壬生浪人は時勢を知らぬ」
「うふっ」
笑った。歳三の眼だけが。
「上州、武州をうろついていた馬糞《まぐそ》臭え剣術屋も、都にのぼれば、一人前の口をきくようだな」
「おい、歳三。馬糞臭え素姓は、お互いさまだろう」
(ちげえねえ)
歳三は、肚のなかで苦笑した。
七里の右足が大きく踏みこむや、上段から撃ちこんだ。
受けた。
手が、しびれた。
すさまじい撃ちである。
歳三は撃ち返さず、七里の剣をつばもとでおさえつつ、さらに押えこみ、一歩、二歩、押しかえした。地の利を得たい、そんなつもりである。
七里は、足払いをかけた。歳三は、きらって足をあげた。
「みな、何をしている」
七里は、闇のまわりへどなった。
「いま、討て。討たねえか。この野郎とて鬼神じゃねえんだ」
ばらっ、と足音が左右にきこえた。
歳三は渾身《こんしん》の力をこめ、七里の体を突きとばした。
七里は飛ばされながら、左腕をのばして歳三の横面をおそった。
が、むなしく剣は旋回して流れた。歳三はすでにそこにいない。歳三は左手へ走った。
駈ける途中、袈裟《けさ》斬りに一人を斬り倒し、越前福井藩邸の南のはしの露地に入りこみ、東へ駈けた。
この喧嘩の功者《こうしや》は、一人で多数と撃ちあう喧嘩が、いかに剣の名人であっても、ものの十分も|もた《ヽヽ》ぬ《ヽ》ことを知っている。
西洞院《にしのとういん》へ出てから、歳三は、やっと歩度をゆるめ、ゆっくり南下しはじめた。
(痛え。——)
左腕をおさえた。
乱刃中にたれの刃が入ったのか、傷口をさぐると、上膊部に指が入るほどの傷が口をあけていた。
それだけではない。
右足の甲《こう》に一つ。
これは、十津川者が斬りさげたのをかわしたとき、できたものであろう。
しかしそれはいい。右|もも《ヽヽ》がぬるぬるするので袴をまくってさぐってみると、三寸ほどの傷があり、しきりと血が流れている。
(やりあがったなあ)
印籠《いんろう》に、|あぶ《ヽヽ》ら《ヽ》薬を入れてある。
そこはもともと薬屋だから、とりあえず止血をしておこうとおもい、あたりをすばやく見まわした。この大路で手当するのはまずかった。
いつ連中がみつけて襲うかもしれない。
恰好の露地をみつけて、入りこんだ。
(焼酎があればいいのだが)
おもいつつ脇差を抜き、傷口をしばるために袴をぬいで、ずたずたに裂いた。
そのときである。
頭上の小窓がひらいたのは。
「いや、恐縮です」
歳三は、土間へ入り、そのまま台所の奥の内井戸《うちいど》までゆき、そこでまず素はだかになった。
泥と血を洗いおとすためであった。
「お内儀《ないぎ》、あつかましいが」
奥へ声をかけた。
声は、ひそめている。近所をはばかってのことである。
「この棚の上の焼酎を所望したい」
大きな鉄釉《てつゆう》の壺が載っている。壺の腹に紙が貼ってあり、
——せうちう。
とみごとなお家流でかかれている。
(どうやら、女世帯らしい)
が、下戸、上戸を問わず、当時は、どの家にも傷手当の用意に焼酎は用意されていた。
「あの」
落ちついた女の声がもどってきた。
「どうぞおつかいくださいますように。金創《きんそう》の薬もございます。白愈膏《びやくゆこう》と申し、調合所は大坂京町堀の河内屋で、なかなか卓効があると申しますが、いかがなさいますか」
しずかな物の云いようだが、ことばに無駄がなく、頭のよさを感じさせた。
「遠慮なく、頂戴します」
歳三は、その女のことを考えた。言葉に、京なまりがない。
どうやら、武家女のことばである。
(何者だろう)
さっき格子戸をあけてなかへ入れてくれたとき、歳三はころがりこむようにして土間に入ってから、ふと顔をあげた。
そのとき、女は、蝋燭《ろうそく》の腰に紙を巻いた即製の手燭を、ちょっとかざすようにして立っていた。
すぐ通りぬけの台所へ入ったが、あのとき、女の意外な美しさに息をのむような思いをしたのをおぼえている。
としは、二十五、六で、身につけているものからして、娘ではない。かといって、夫が居そうにはなかった。
せまい家だ。
様子でわかるのである。
(痛い。——)
沁みる。焼酎が沁みた。
さすがの歳三も気をうしないそうになった。
褌《まわし》一本の姿で、歳三は井戸ばたにかがんでいる。自分で自分の傷をあらうのだ。よほど豪気でないと、この|まね《ヽヽ》はできない。
内儀は、いつのまにかきて、土間のむこうで、遠灯《とおび》をかざしながら、それをみている。
近づかないのは、武家育ちらしいたしなみというものだろう。
歳三はそれでも、傷口に|あぶ《ヽヽ》ら《ヽ》をぬり、内儀の出してくれた|さら《ヽヽ》し《ヽ》で三カ所の傷口をしばり、
「すまぬが、そこの町木戸の番小屋にそういって、辻駕籠をよぶように申しつけてくれませんか」
「どなた様です」
「え?」
傷が、鳴るように痛む。
「あの、あなたさまは、——」
内儀は、たずねた。
「ああ、申しおくれましたな。新選組の土方歳三、と申していただければ、町役人がよろしく取りはからってくれるはずです」
(このひとが。……)
歳三の名は、京洛《けいらく》で鳴りひびいている。
泣く児もだまる、というのは、この男のばあい大げさな表現ではない。
「たのみます」
「———」
女はだまってうなずき、土間のすみに手をさし入れている様子だったが、やがて傘を出して、出て行った。
ほどなくきしみのさわやかな高下駄の歯音をたててもどってきた。
歳三の衣料は、雨と血でよごれている。
「もしおよろしければ」
女は、ひと襲《かさ》ねの黒木綿の紋服を、みだれ籠に入れてもちだしてきた。羽織、袴だけでなく、襦袢《じゆばん》、六尺に切った晒《さらし》までそろえてある。死んだ亭主のものだろう。
それを土間においた。
(気のつく女だな)
歳三は、顔をあげ、蝋燭の灯影でおんなの眼をみた。どちらかといえば京の顔だちではなく、江戸の浅草寺《せんそうじ》の縁日などに参詣にきている女に、こういう顔だちがある。
眼が|ひと《ヽヽ》え《ヽ》で、色が浅黒く、唇もとの翳がつよい。
「あんた、江戸のひとだな」
歳三は尻のあがった多摩弁でいった。
「———」
女は、癖で、瞬《まばた》きのすくない眼を見はって歳三をみつめていたが、やがて、
「ええ」
というように、うなずいた。
「名は、なんと申される」
「雪と申します」
「武家だね」
「———」
女は、だまった。いわずとも、知れている。
「いや、京で江戸うまれの婦人に会うことはまれなことだ。今夜、私は運がよかった」
(しかし、江戸の女がなぜ、こんな町でひとり住まいしている)
歳三は疑問におもったが、口には出さず、乱れ籠の上を、掌でおさえるようなしぐさをして、
「それは、ご好意だけ頂戴しておく。まだ血がとまらぬというのに、せっかくお大事のお品を汚《けが》しては申しわけない」
歳三は、褌《まわし》一つ、晒でぐるぐるしばりの姿のまま、大小をつかんで立ちあがった。
「そのまま、御帰陣なさいますか」
新選組副長ともあろう名誉の武士が、といった眼の表情である。
「お召しくださいまし」
|うむ《ヽヽ》をいわせず、命ずるようにいった。歳三は、立ち眩《くら》みそうになるほどの思いで、この女が命じた歯切れのいい響きを懐しんだ。京の女には、ない味である。江戸の女は、親切とあればおさえつけてでも、相手を従わせてしまう。
(ああ、忘れていた味だ)
歳三は、御府内のそとの片田舎のうまれである。年少のころから十三里むこうの江戸の女にあこがれた。
その思いが残っているために、ひとが佳《よ》いという京の女に、どうしてもなじめない。
「では、拝借する」
手を通しておどろいたことは、歳三とおなじ左三巴の紋である。
「奇縁だな」
歳三は、紋を見つめた。
(この女と、どうにかなるのではないか)
女は挙措《きよそ》をきびしくひかえめにはしているが、その眼に、あきらかに歳三への好意がある。
その好意が、おなじ東国のうまれ、という単なる親しみから出たものか、それとも、男としての歳三その者への好意なのか。
やがて、家主、差配《やもり》、町役人が、あいさつと見舞いにやってきた。
家主は、表の質舗《しちみせ》近江屋で、差配は、治兵衛という枯れた老人である。
「いずれ、礼にきます」
歳三は、かれらに見送られて辻駕籠に乗った。
屯営では、大さわぎをしていた。
小者の藤吉のしらせで、原田左之助、沖田総司の隊が現場に駈けつけたところ、付近には、死体も人もいない。
しかも歳三は屯営にもどらない。とあって市中の八方に隊士が捜索にすっ飛んだ。
そこへ歳三が火熨斗《ひのし》のよくきいた紋服を着てもどってきたのである。
「どうなさったのです」
隊士がきいても、にやっと笑うだけでさっさと式台へあがり、自室にひきとった。
すぐ外科をよび、手当を仕直して貰った。
医者が帰ると、沖田総司が入ってきた。
「ひとさわがせですねえ」
「すまん」
「どうなさったんです」
「越前福井藩邸の前で、また七里研之助のやつがあらわれやがった、あいつはおれの憑《つ》き物《もの》だよ」
「結構な憑きものだ」
沖田は、柄巻《つかまき》が、雨と血でぬれている歳三の和泉守兼定二尺八寸を抜いた。刃こぼれ、血の曇りがおびただしい。
「お働きのご様子ですね」
「斬《や》られかけたさ。あいつらは、長州の京都退却後、土州藩邸か薩摩藩邸にかくまわれているのだろう。十津川のやつもいた。その連中を、七里が|あご《ヽヽ》で使っている様子からみて、もう京都では相当な顔にのしあがっているらしい」
「なんでも、探索の連中のはなしだと、七里は、つねづね、土方だけはおれがやる、といっているらしいですよ」
「祟《たた》りゃがるなあ」
「うふ」
沖田が笑った。(あんたの昔の素行がわるいのだ)といった、悪戯《いたずら》っぽい眼である。
「ところで総司」
歳三は、生きいきとした眼でいった。
「おらァ、女に惚れたらしいよ」
「え?」
沖田は、まぶしい表情をした。
歳三が、かつて、
惚れた。
などということばを、女に関してつかったことがなかったからである。
「隊の者にはだまってろよ。近藤が芸州から帰ってきてもいっちゃならねえ」
「じゃ、私にも云わなきゃいいのに」
「お前だけは、べつさ」
「私だけは別? 迷惑だなあ、訴え仏みたいにされちゃって」
「ふふ、お前にはそんなところがあるよ」
十日ほどして歳三は、洗い張りをして縫いかえた例の衣類一さいを小者にもたせ、家主の近江屋へ出むいた。家主は、差配の治兵衛老人もよびつけて同席させた。
聞けば、女は、大垣藩の江戸|定府《じようふ》で御徒士《おかち》をつとめていた加田進次郎という者の妻女であるという。藩が京の警衛を命ぜられると、加田は単身、藩兵として京にのぼった。単身は当然なことで、どの藩でも、上士下士を問わず、妻子をつれて京にのぼっている者はない。
しかし、お雪は、風変りなところがあり、夫のあとを追って京にのぼり、藩には遠慮し、ひそかに町住まいをした。それほど夫婦仲がよかった、というわけではない。
お雪、画才があり、のちに紅霞《こうか》という号で多少の作品を、京、東京に残している。画技は、その人柄ほどのものではない。
京にのぼったのは、京の絵師吉田|良道《ながみち》について四条|円山派《まるやまは》の絵を学ぶためであった。
ほどなく夫が病死した。
お雪は、ひとり京に残された。すぐ江戸の実家《さと》へ帰るべきであったが、実家が寛永寺の坊官で収入《みいり》がいい。その仕送りがあるまま、なんとなく、日を消している。