「いや、私はこの姿《なり》でいい」
と、歳三が、ただの浪人姿で東下《とうげ》しようとするのを、近藤がとめた。
「道中ではさきざき、宿割りして本陣にとまることになっている。その風体《ふうてい》では、御定法《ごじようほう》が立たぬ。歴とした格式どおりの装束《こしらえ》でゆけ」
当然なことだ。
浪人姿で、本陣どまりはまずかろう。本陣は、大名、公卿、旗本、それに御目見得以上の身分でなければ泊まれない。
歳三は、ぎょうぎょうしい恰好になった。
青だたき裏金《うらきん》輪抜けの陣笠、その白緒をつよくあごに締め、供には若党、草履取り、槍持、馬の口取り、といった者をそろえて、街道をくだった。
これに、隊士五人がつく。
(どうも芝居じみている)
はじめは、照れくさかった。
本陣へつくと、門前に、
「土方歳三宿」
という奉書紙の関札《せきふだ》がはりだされ、宿役人が機嫌うかがいにくる。
(おかしなものだ)
箱根を越えるころには、すっかり板についてしまっていた。
(照れ臭え、とおもえば、他人の眼からもちぐはぐにみえるだろう。そういうものだ)
度胸をすえてしまった。
据えてみると、上背《うわぜい》もあるし、眼もと、口許に苦味のある涼しい容貌の男だから、親代々の旗本よりずっとりっぱにみえるのである。
「土方先生、こりゃどうも」
と隊士のほうが、口にこそ出さないが、そんな眼で、おどろいている。
道中、単衣《ひとえ》でとおした。
この慶応三年秋というのは、いつまでもだらだらと暑さがつづいて、やりきれなかったからである。
品川の海が右手にきらきらと光りはじめたとき、歳三はやっと、
(帰ってきた)
という実感をもった。あれは文久三年、まだ寒かった二月のことだ。江戸を発った。あれから足かけ五年目の帰郷である。
歳三一行は、江戸の大木戸へ入った。
しばらく歩いて、金杉橋のたもとの茶店で、休息した。べつに疲れてはいなかったが、江戸にかえった、という気分を、床几の上で味わってみたかったのである。
(江戸はかわった)
景気が、ではない。
町の者、茶店の亭主、女房、婢女《はしため》のたぐいまで、どこか表情がしらじらしい。
が、すぐ歳三はその理由に気づいた。
(ばかばかしい。おれのこの衣裳だ)
町人どもは、旗本である歳三に対し、それにふさわしい表情、物腰で接する。江戸がかわったのではなく、歳三がかわったのだ。
「親爺」
とよんでも、即答はしない。若党に、うかがいを立てるような顔つきをする。
「おい、菰田《こもだ》君」
と、歳三は同行の平隊士にいった。
「あの親爺に、おれにいろいろ世間話をするように、さとしてくれ」
われながら、滑稽になった。
親爺は、やっと打ちとけた。
「殿様、江戸もここ一年でだいぶかわりましてござります」
と、おやじはいった。歳三が、大坂在番かなにかで、もどってきた、とみているのだろう。
「こうして外をながめていると、そうもみえぬようだが」
「いいえ、一度ごらんなさいまし。一ツ橋御門のそとに異国人伝習所というとほうもない建物ができておりますし、鉄砲洲《てつぽうず》の軍艦御操練所のあとへも、|ほて《ヽヽ》る《ヽ》とかいう異人の宿がこの夏から建って、近くの十軒町の連中が、むこうの空がみえねえと、半分冗談でさわいでいるほど、たいそうなものでございます」
「そうか」
歳三も、感慨無量だった。
かつて江戸を発つときには、
「攘夷のさきがけになる」
といって出たはずである。
ところが、かんじんの幕府が、攘夷主義の京都朝廷の意向に反して、なしくずしに開国してゆく。
条約も、もはや一流国だけでなく、この月も、ポルトガル、イスパニア、ベルギー、デンマークといった二流国とまで結ぶにいたった、ということを歳三もきいていた。
(攘夷屋の伊東甲子太郎が怒るはずさ)
歳三は、攘夷も開国もない。
事がここまできた以上、最後まで徳川幕府をまもる覚悟になっている。
歳三らは、茶店を発った。
あとでおやじが、くびをひねった。
(どうも見たことのある顔だ)
おやじは、南多摩郡日野のうまれで、吉松といった。日野宿は、歳三の生家にちかい。
「あのかたは、どなただ」
と、女房にきいた。
「大御番組頭で、なんでも、土方歳三とおっしゃるそうだよ」
「あっ、歳」
おもいだした。
浅川堤から多摩川べり、甲州街道ぞいの一帯を、真黒に陽やけしてうろうろあるいていた茨垣《ばらがき》(不良少年)の歳ではないか。
「歳め、なんてえ真似をしやがる」
おやじは、眼をみはった。歳がニセ旗本で東海道を上下しているとおもったのだろう。
歳三は、近藤が最近買いもとめた牛込二十騎町の屋敷にわらじをぬいだ。
近藤はさきに帰東したとき、小石川小日向柳町の古道場をたたんでしまって、格式相応のこの屋敷を買った。
このひろい屋敷に、病臥中の近藤周斎、勇の女房の|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》、それに、ひとり娘の瓊子《たまこ》が、世間からおきわすれられたようにして住んでいる。
(なるほど、りっぱな屋敷だ)
江戸もかわった、とやや皮肉に歳三はおもった。武州の百姓あがりの近藤勇が、これだけの屋敷を、江戸にもっているのである。
周斎老人は、骨と皮だけになって、もう視力もいけないようだった。
「いかがです」
と、歳三は、ふとんの横にすわったが、眼がひらいているだけで、みえていないらしい。
それでも、夜になってすこし元気になり、
「歳三よ。おれも一生で九人も女房をかえたほどの男だが、こんどはいけないらしい」
と、小さな声でいった。
勇の女房|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》はあいかわらずの不愛想で、懐しがりもしていなかった。
「お達者ですか」
と、歳三がいうと、
「体だけはね」
と答えた。こんな女でも、近藤から捨てられて暮らしていると、やはり人並に腹がたつものらしく、以前よりも、顔つきが剣呑《けんのん》になっていた。
「当分、宿に拝借します」
「ああ」
|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》は、腹のあたりを掻きながらうなずいた。
とうてい、大旗本の奥様とはいえそうにない女だった。
歳三は、この屋敷を本拠にして隊士募集をするつもりでいる。
「多少、人が出入りしますが、おふくみおきください」
翌日から、隊士に檄文をもたせて、江戸中の道場を片っぱしから訪ねさせた。
大小三百軒はある。
なるべく無名流派の小道場をえらび、千葉、桃井、斎藤といった大道場は訪ねさせなかった。
大道場の門人は、勤王化している者が多い。
もう新選組も、清河八郎や、山南敬助、藤堂平助、それに伊東甲子太郎でこりごりだった。
「小流儀がいい。それも、百姓、町人といった素姓の者で、根性のすわった男がいい」
と、歳三は、募集掛りの隊士にいった。
「長州の奇兵隊をみろ」
百姓、町人のあがりばかりだが、いまや、長州軍をささえる最強の隊になっている。
代々、家禄に飽いた家からは、ろくな武士が出ない。
噂はたちまち江戸の諸道場にひろまって、二十騎町の近藤屋敷にたずねてくる剣客が、ひきもきらなかった。
面接は、隊士にまかせている。
隊士が気に入ると、鄭重に玄関まで送り、集合の日をしらせるのである。
歳三は、いっさい顔をみせず、奥の一室で、掛りの隊士からその日の報告をきくだけである。
「なぜ、お会いにならないのです」
と隊士がきいたことがある。
「おれは、もうつらをみただけで好き嫌いが先に来る男だよ。そんなやつに大事な隊士の選考ができるものか」
「なるほど」
と隊士たちはあとで、ささやき合った。
「あの人は、あれはあれなりに御自分がわかっているらしい」
という者もあれば、
「いや、この道中で思ったのだが、あの人も人間ができてきたようだ。もう、こまごましたことはいわない」
そんなことをいう者もある。どういうものかわからないが、歳三の評判がこの江戸行きをさかいにして、めっきりよくなってきた。
歳三自身も、これは自分でも気づかぬところだろう。ひょっとすると、京のお雪との交情にかかわりのあることかもしれないのだが。——
もしここに、人間観察のするどい隊士がいるとすれば、
「ひとり身で、女もろくに抱かずにここまでやってきた人だ。血が猛《たけ》っている。それがちかごろどこかでいいのができて、他人《ひと》それぞれの生命のあわれさがわかってきたのではないか」
そんなことをいうかもしれない。
日野の佐藤家に残っているはなしでは、この江戸滞留中、一度だけ、歳三は、生家と佐藤家、その他をたずねた。
|あん《ヽヽ》ぽつ《ヽヽ》駕籠という、当時身分のある武家でなければ乗れなかった駕籠でやってきたらしい。
日野宿近辺では、評判があまりよくなかった。
「頭《ず》が高くなりゃがった」
というのである。
義兄の佐藤彦五郎までが、
「歳、お前、いまは殿様かもしれねえが、むかしを忘れちゃいけないよ」
と、遠まわしにたしなめた。
「おなじ歳さ」
と、歳三は、笑いもせずにいった。
歳三はむかし、この近郷では不愛想で通った男であった。その地金はいまも、おなじだ、といったのである。
「しかし歳、せっかく故郷に錦をかざったんだ。みな、お前と勇とが、三多摩きっての出世頭だとよろこんでいる。みんなにそういう気持の下地があるんだから、ちゃんと応《こた》えてやらなくちゃいけないよ」
「ふむ?」
にがい顔でいった。
「どうすりゃ、いいんだ」
「すこしは、笑顔をみせろ、笑顔を。この辺の連中は素直だから、ああ、偉くなる人はちがったものだ、頭がひくい、とみんながよろこぶ。それとも、そんなにお前、笑顔が惜しいかね」
「惜しかねえが」
歳三には、わからない。
「可笑《おか》しくもないのに笑えねえよ」
そのくせ、妙にこまごまと気のつく優しいところがあったという。
石田在の生家に、姪《めい》で、|ぬい《ヽヽ》というむすめがいた。
歳三が京へ発った当時にはまだ幼かったが、その後江戸の大名屋敷に行儀見習に行っていた。
ほどなく隣家へ嫁したが、病身のために不縁になって出戻っている、といううわさを歳三も京で聞いていた。
この|ぬい《ヽヽ》にだけは、いつのまに買いととのえたのか、京の櫛笄《くしこうがい》、絵草紙などをみやげにもってきてやっている。
「歳も、存外なところがあるものだ」
と盲兄の為三郎が感心した。
ほかに、縁談があった。
姉のおのぶ(佐藤彦五郎妻)がもってきたもので、盲兄の為三郎も、しつこいほどすすめた。
「その娘、おれァも知ってるんだが、きれいな娘だよ。目あきならともかく、目の見えないのがそういうんだからこれほどたしかなことはなかろう」
戸塚村の娘である。
土方家とは遠縁にあたる家で、村でもたいそうな物持だが、先代の道楽で、三味線屋もかねている。
「ああ、あの家か」
と、歳三もうろ覚えにおぼえていた。屋敷には冠木門《かぶきもん》に楓《かえで》垣根がまわしてあり、街道筋に面した一角だけは、「店」と称して小格子づくりにしてある。
そこで、三味線を売っていた。
「お琴さんだろう」
歳三は、破笑《わら》った。
このくだりで、はじめて笑ったらしい。
お琴は、戸塚かいわいでもきっての美人だし、なによりも三味線がうまかった。歳三が京へ発つころ、十五、六だったから、もう二十はすぎているだろう。
「歳、お前、気があるな」
盲兄が首をかしげた。気配で、ひとの気持がわかるらしい。
「貰うこった。お前はこの家の末っ子だが、指を折ってみるともう三十三になる。男としても|とう《ヽヽ》が立っている」
「立ちすぎている。三十三にもなって|やも《ヽヽ》め《ヽ》というのは、もうだめだね。女房だなんてことで女にべったり二六時中くっつかれちゃ、おお、と身ぶるいがする。それに、ただの武士なら禄を食ってひまをつぶしているだけでいいが、おれには仕事がある」
「なんの仕事がある」
「新選組さ」
この縁談《はなし》は、それっきりになった。
歳三は、数日、郷里にいただけで、すぐ江戸へもどった。
江戸では、沖田総司の義兄で、新徴組の小頭になっている同姓林太郎、その女房のお光(総司の実姉)などにも会った。
お光は、総司の体のことばかりを、くどくどときいた。
「なあに、気づかいはないです」
と歳三はいったが、事実は、総司は月のうち半分は寝こむようになっていた。
薬は、医者の投薬したものものむが、歳三の生家の家伝の薬ものんでいる。
土方家には、歳三がかつてそれを担《にな》って売りあるいていた打身薬「石田散薬」のほかに、結核にきくという「虚労散」という名の薬があり、歳三は、それをわざわざ京までとりよせては、沖田にのませていた。
歳三が煎じてやると、
「いやだなあ」
と不承々々、のむ。
「土方さんのために服むんですよ」
と恩に着せたりした。
「お光さん、こんども、それを持って帰ります。あれは効きますから」
薬売りのころのくせで、こんなことを自信をもっていう。いや、歳三自身も、自分の薬は効く、と信じきっていた。諸事、そんな性分の男なのである。
隊士は、選りすぐって二十八人。
十月二十一日未明に近藤屋敷に集結し、江戸を発った。
それより数日前の十四日、将軍|慶喜《よしのぶ》が大政を奉還した、という事実があるが、江戸にいる歳三の耳にまでは入っていなかった。
小田原の本陣できいた。
そのとき、歳三は顔色ひとつ変えず、
「なあに、新選組の活躍はこれからさ」
と、ひとことだけいった。
十一月四日、京都着。
三条大橋をわたろうとすると、前夜からの風雨がいよいよつのって、むこう岸が朦気《もうき》でくろずんでみえた。
歳三は、橋の上に、ぼう然と立った。これほどすさまじい表情の京を、みたことがなかった。
江戸では、沖田総司の義兄で、新徴組の小頭になっている同姓林太郎、その女房のお光(総司の実姉)などにも会った。
お光は、総司の体のことばかりを、くどくどときいた。
「なあに、気づかいはないです」
と歳三はいったが、事実は、総司は月のうち半分は寝こむようになっていた。
薬は、医者の投薬したものものむが、歳三の生家の家伝の薬ものんでいる。
土方家には、歳三がかつてそれを担《にな》って売りあるいていた打身薬「石田散薬」のほかに、結核にきくという「虚労散」という名の薬があり、歳三は、それをわざわざ京までとりよせては、沖田にのませていた。
歳三が煎じてやると、
「いやだなあ」
と不承々々、のむ。
「土方さんのために服むんですよ」
と恩に着せたりした。
「お光さん、こんども、それを持って帰ります。あれは効きますから」
薬売りのころのくせで、こんなことを自信をもっていう。いや、歳三自身も、自分の薬は効く、と信じきっていた。諸事、そんな性分の男なのである。
隊士は、選りすぐって二十八人。
十月二十一日未明に近藤屋敷に集結し、江戸を発った。
それより数日前の十四日、将軍|慶喜《よしのぶ》が大政を奉還した、という事実があるが、江戸にいる歳三の耳にまでは入っていなかった。
小田原の本陣できいた。
そのとき、歳三は顔色ひとつ変えず、
「なあに、新選組の活躍はこれからさ」
と、ひとことだけいった。
十一月四日、京都着。
三条大橋をわたろうとすると、前夜からの風雨がいよいよつのって、むこう岸が朦気《もうき》でくろずんでみえた。
歳三は、橋の上に、ぼう然と立った。これほどすさまじい表情の京を、みたことがなかった。