その元旦、歳三は、甲冑陣羽織といったものものしい戎装《じゆうそう》のまま、終日濡れ縁にすわっていた。眼の前は、白洲《しらす》である。急にあたりがひえびえとしてきた。
(暮れやがった)
陽が樗《おうち》の老樹に落ちてゆく。史上、第二の戦国時代といっていい「戊辰《ぼしん》」の年の第一日が暮れた。
「あっはは、きょうも暮れやがったか」
歳三は、気味のわるいほど機嫌がいい。
「歳、暮れたのがどうした」
と訊きかえすであろう近藤はもうそばにいないのである。近藤とともに大坂に後送された沖田総司がもしここにおれば、
「土方さんは喧嘩のために生きているのですか」
とまぜっかえすところであろう。歳三はじれるような気持で、開戦を待ちかねていた。
しかし、元旦は無事に暮れた。
二日も無事。
しかしこの日は、多少の変化があった。会津の先遣隊三百人が大坂から船でやってきて、伏見の東本願寺別院に入ったのである。
その使番《つかいばん》が、伏見奉行所の新選組にあいさつにきた。
「主力は、あす三日にこのあたりに到着するでしょう」
と、使番はいった。
(戦さは、あすだな)
歳三は、地図をみている。
大坂の方角から京に入る街道は、鳥羽街道(大坂街道・ほぼ現在の京阪国道)、竹田街道、伏見街道の三道がある。使番のはなしでは、この三道をひた押しに押して京へ入るということであった。
当然、伏見から鳥羽にかけて東西に布陣している京方の薩長土の諸隊と衝突する。
(面白え)
歳三は、じっとしていられなくなって、この日も望楼にのぼった。
風が身を切るようにつめたい。
歳三は、フランス製の望遠鏡をとりだして予定戦場を遠望した。
さすがに望遠鏡では見えないが、薩軍主力五百人が京都の東寺《とうじ》にあることは諜報でわかっていた。東寺からまっすぐに南下しているのが、大坂街道(鳥羽街道)である。薩摩藩はこの街道をおさえている。その前哨部隊二百五十人は下鳥羽村小枝にまで南下して陣を布いていた。
砲は八門。
二百五十人の部隊に火砲が八門というのは日本戦史上、かつてない贅沢さである。薩英戦争以来、極端に砲兵重視主義になった薩摩藩の戦術思想のあらわれというべきであろう。この前哨陣地の隊長は薩摩藩士野津|鎮雄《しずお》。その弟|道貫《みちつら》も配属されている。のちに日露戦役で第四軍司令官となり、勇猛をうたわれた人物だ。元帥、侯爵。
(しかし人数がすくなすぎる)
と歳三。
さらに望遠鏡を東に転じて、足もとの伏見の市街地をみた。
伏見というのは京風の都市計画でできた町で、道路が碁盤の目になっており、人家はびっしりつまっている。ここでは、日本戦史では類のすくない市街戦になろう。市街戦は新選組の得意とするところであった。
つい目と鼻のさきの御香宮が薩軍屯所で、ここに八百人。
その伏見街道ぞいの背後には長州軍千人が屯集し、主将は毛利|内匠《たくみ》。参謀は長州藩士山田|顕義《あきよし》(維新後陸軍少将になったが、のち行政家に転じ、内務卿・司法大臣などを歴任、伯爵)、諸隊長のなかにはのちの三浦|梧楼《ごろう》(観樹)などがいる。
竹田街道には土佐藩兵百余人。その予備隊として一個大隊が背後にあり、大隊長は谷|干城《たてき》(のちの陸軍中将で西南戦争における熊本鎮台司令官として知らる。子爵)、中隊長には、のち日清戦争で旅順城を一夜で陥落させた「独眼竜将軍」山地|元治《もとはる》がいる。
これら伏見部隊が、歳三の正面の敵になるであろう。
(存外、鳥羽方面にくらべて大砲が少ねえ)
と、歳三は観察した。
(これは、勝つ)
たれがみてもそう思ったであろう。京都の薩長土三藩の兵は、大坂の幕軍の可動兵力からみれば、八分の一にもあたらない。
この日、伏見の新選組では、「誠」の隊旗のほかに日章旗を立てた。
幕軍全体の隊旗である。というよりも幕軍のほうが、国際的立場からみれば(大政奉還したとはいえ)日本の政府軍であるというあたまがあったのであろう。これは親幕派のフランス公使の入れ智恵であったかとおもわれる。
薩長土は、まだ「官軍」にはなっていなかった。なぜならば御所に詰めている公卿、諸侯のほとんどは、薩長の対徳川強硬策に反対で、もし戦闘がおこれば、それは薩長の私闘であって京都朝廷は関知しないという肚でいる。公卿たちは、十中八九、幕軍が勝つとみていた。勝てば、幕軍が官軍になる(薩長の首脳部でさえ勝てるとは確信していなかった。もし敗けたばあい、少年天子を擁して山陰道に走り、中国、西国の外様《とざま》大名の蹶起を待つつもりであった。薩摩藩の首脳部のひとり吉井幸輔も「薩長の存亡、何ぞ論ずるに足らんや」といっている。もはや薩長にとっては必死の賭博といってよかろう)。
三日。——
運命の日である。
この日、前夜来大坂城を進発した会津藩兵はぞくぞくと伏見に到着し、伏見奉行所に入った。
歳三はそれを門前でむかえた。
「やあ、土方さん」
と肩をたたいたのは、隊長の林権助老人である。このとき六十三。顔が赤く、灰色のまゆが、ちぢれている。
林家は代々権助を世襲する会津家中の名家で、権助|安定《やすさだ》は若いころから武骨で通った名物男であった。会津藩が京都守護職を命ぜられてからずっと大砲奉行をおおせつかってきている。
歳三がかつて、
「新選組にも大砲を数門よこせ」
と会津藩に折衝したとき、あいだに立った藩の公用方の外島機兵衛がだいぶこまったが、林権助が、
「ああ、一つ進ぜる」
と無造作にくれた。
その後、何度か、この老人と黒谷の会津本陣で酒を汲みかわし、権助も歳三をひどく気に入ったようであった。
権助、酒は、あびるほど飲む。
「あんたは感心じゃ」
と、権助は歳三をほめたことがある。
「飲んでも、天下国家を論ぜぬところがおもしろい」
ほめたのか、どうか。——ただそのあとで、
「わしと同じじゃ」
とつけくわえた。武弁であることに徹底しようとしている老人である。
酔っても、芸はなかった。ただ、芸とはいえないがときに、
「|遊び《ヽヽ》をやりまする」
と幼童の声を真似る。
「|遊び《ヽヽ》」とは、会津藩の上士の児童のあいだにある一種の社交団体で、六、七歳になるとこの「遊び」という団体に入る。
会津藩の上士は、約八百軒である。これを地域によって八組の|遊び《ヽヽ》団体にわけ、九歳の児童を最年長としていた。
かれらは午前中は寺子屋に通い、午後はどこかの家にあつまる。
ここで、年齢順にならび、最年長の九歳の早生れの者が座長となり、
「これからお話をいたします」
と正座し、「遊び」の心得方をのべる。
一、年長者のいうことは聴かねばなりませぬ。
二、年長者にはおじぎをしなければなりませぬ。
三、うそを言うてはなりませぬ。
四、卑怯なふるまいをしてはなりませぬ。
五、弱い者をいじめてはなりませぬ。
六、戸外で物を食べてはなりませぬ。
七、戸外で婦人と言葉を交してはなりませぬ。
権助は、酔うと童心にかえるたちなのか、これを高唱して子供のころのまねをするのだ。現在《いま》なら酒席で童謡をうたうようなものであろう。それだけが酒席の芸という男である。
槍術、剣術の免許者で、とくに会津の軍学である長沼流にあかるく、調練の指揮をとらせると無双にうまかった。
だから会津藩も、こんどの伏見方面の指揮をこの六十三歳の老人にとらせることになったのであろう。
林部隊の砲は、三門である。ごろごろと車輪をひびかせつつ、奉行所の門に入った。
「土方さん、形勢はどうです」
と、林権助は、あごを北へしゃくった。薩長の陣地の配置をきいていたのである。
「あとで望楼へお伴しましょう」
と歳三はまず手製の地図をひろげた。
権助は驚嘆して、
「ほう、ほう」
と、子供のように眼をかがやかせた。
「この地図は、どなたが作ったのです」
「私ですよ」
と、歳三はいった。この男は、多摩川べりで喧嘩をしていたころから、かならず地形偵察をし、地図を作ってからやった。たれに教えられた軍学でもない。歳三が、喧嘩をかさねてゆくうちに自得をしたものである。
「これは土方流の軍学じゃな」
と、長沼流の権助は咽喉を鳴らした。うれしいときの老人のくせである。
歳三の地図は精密なものだ。このあたりを十分踏査して描き、諜報その他によって得た敵の配置を、克明にかき入れてある。
「これで戦さをなさるのか」
「いや、この敵の配置は、たったいま現在のものです。もう一刻たてばどう変化するかわかりません。喧嘩の前には忘れますよ」
と、権助の見ている前で破り、そばの火鉢の中にほうりこんだ。
ぼっ、と燃えた。
敵情は変化する、とらわれない、というつもりであろう。
「土方流ですな」
権助は、また|のど《ヽヽ》を鳴らした。自分と一緒に戦さをする男を、ひどく気に入っている。
「土方さん、あんたとわしが手痛く戦さをすれば、向うところ敵なしですよ」
「一献《いつこん》、汲みますか」
「いや、酒は勝ってからです。また例の会津幼童の|遊び《ヽヽ》を聴かせましょう」
二人は、一緒に昼食をとった。
そのあと、望楼にのぼった。
「ごらんなさい」
と、歳三は足もとを指さした。ほんの足もとの近さである、御香宮は。
そこに、薩軍の本拠がある。奉行所の北塀とは二十メートルほどの距離であろう。
「土方さん、変わった」
と、権助は首をつきだした。
「あんたの地図とは、もうちがっている。薩軍はふえている」
だから歳三は地図を破った。敵というものは、どう変化するかわからない。
歳三は望遠鏡でのぞいた。
なるほど、薩摩軍は、ふえている。
会津の林隊による奉行所兵力の増強に、敏感に対応したのである。
御香宮の東側に、小さな丘陵がある。土地では竜雲寺山とよんでいたが、山というほどの高地ではない。
そこに薩摩藩の砲兵陣地がある。それがほぼ二倍に増強されているのである。
増援された砲兵隊長は、薩摩藩第二砲隊の隊長大山弥助であった。のちの日露戦争の満州軍総司令官大山|巌《いわお》で、当時二十七歳。早くから江戸に出て砲術を学び、薩英戦争にも砲兵小隊長として参加した。冗談のすきな若者で、
「また大山が冗談《チヤリ》云う」
と家中で一種の人気者だったが、この日、京都から伏見へと急行するあいだ、ほとんど口をきかなかった。
竜雲寺山に四斤野砲をひっぱりあげると、すぐ放列《ほうれつ》を布いた。
眼下が、伏見の奉行所である。でたらめに撃っても、弾丸はことごとく命中するであろう。
「あの竜雲寺山は」
と、林権助はいった。
「はじめ、彦根藩の守備陣地になっていたのではないですか」
「そうです」
と、歳三はいった。
「彦根藩の陣地ですよ。しかしいつのまにか薩摩藩に通じ、陣地をひきはらって薩摩の砲兵を入れてしまった」
「彦根の井伊といえば」
云わずと知れている。家康以来、徳川軍の先鋒ときまっていた。家は譜代大名の筆頭で幕閣の大老を出す家格である。
「それが寝返ったか」
「愚痴」
と歳三はいった。
「いわぬことです。それよりも、あの山に砲を置かれては、二階から石をおとされるようなものだ。開戦となれば、会津の砲ですぐあいつをつぶしてくれますか」
「いかにも」
権助には戦国武者の風貌がある。げんにその老体を、先祖重代の甲冑で鎧《よろ》っていた。
と、林権助はいった。
「はじめ、彦根藩の守備陣地になっていたのではないですか」
「そうです」
と、歳三はいった。
「彦根藩の陣地ですよ。しかしいつのまにか薩摩藩に通じ、陣地をひきはらって薩摩の砲兵を入れてしまった」
「彦根の井伊といえば」
云わずと知れている。家康以来、徳川軍の先鋒ときまっていた。家は譜代大名の筆頭で幕閣の大老を出す家格である。
「それが寝返ったか」
「愚痴」
と歳三はいった。
「いわぬことです。それよりも、あの山に砲を置かれては、二階から石をおとされるようなものだ。開戦となれば、会津の砲ですぐあいつをつぶしてくれますか」
「いかにも」
権助には戦国武者の風貌がある。げんにその老体を、先祖重代の甲冑で鎧《よろ》っていた。
二人は、望楼をおりた。時刻がやや移った。
そのころ、西のほう大坂街道(鳥羽街道)では、おびただしい人数の幕軍が北上しつつあった。
「討薩表」を所持した慶喜代理の幕軍大目付滝川|播磨守《はりまのかみ》を「護衛」する、という名目の部隊が先鋒で、幕府仏式歩兵二大隊(七百人)砲四門、佐々木唯三郎が率いる見廻組二百名、という兵力である。さらにやや間隔をひらいて後続の幕軍主力が山崎にまできていた。
この滝川播磨守の先鋒が、鳥羽街道を北進して鳥羽の四ツ塚まできた。
四ツ塚には、薩摩兵が陣地をかまえ、関門をつくっている。
幕軍は使者を出し、まず関門の通過方を請うた。
薩摩の軍監は、椎原《しいはら》小弥太である。ほかに一名をつれただけで、大胆にも路上を幕軍にむかって歩き出した。
「貴下は何者だ」
と、幕軍の滝川播磨守は馬上で高飛車にいったという。世が世ならこちらは幕府の大目付、相手は陪臣にすぎない。
「ここの関守でごわす」
と、椎原小弥太は幕軍に囲まれながら泰然と答えた。
あとは、通せ、通さぬの押し問答である。
(問答無用)
と、幕軍は思ったのであろう。
椎原との交渉中、歩兵指図役の石川百平はひそかに砲隊のもとに走って、
——薩軍を撃て。
と命じた。
なにぶん、行軍中の砲である。弾《たま》を装填《そうてん》し車輪を運動させて、まさに砲口を北方にむけようとした。
そのとき、薩軍の砲兵陣地のほうがいちはやく火を噴いた。砲兵指揮官野津鎮雄の独断による射撃命令である。
弾は飛んで、運動中の幕軍の砲一門の砲架に命中し、轟然と炸裂《さくれつ》した。
砲架は粉砕され、その砲側にあった歩兵指図役石川百平、大河原|★[#金+辰]蔵《しんぞう》の二人は肉片になって飛び散った。
この野津の一弾が、鳥羽伏見の戦い、さらにそれにつづく戊辰戦乱の第一弾になった。このとき、午後五時ごろである。すでに陽は暮れようとしている。
この砲声、さらにつづく激しい小銃の射撃戦の音は、すぐ東方の伏見に聞こえた。
「やった」
と、林権助、すばやく奉行所の北方に構築してある柵門《さくもん》をひらき、砲を進出させ、初一発を薩摩の竜雲寺山の砲兵陣地に撃ちこんだ。それにつれて後門を守っている新選組百五十人が路上に突出しようとしたが、歳三は押しとどめ、
「まあ、首途《かどで》の祝い酒を汲め」
と、用意の酒樽の鏡をぬいた、という伝説が土地に残っている。
みな、|ひし《ヽヽ》ゃく《ヽヽ》をまわして酒をのみ、全員が飲みきらぬうちに、御香宮と竜雲寺山の二カ所から撃ちだす薩摩の砲弾がやつぎばやに落下してきて、あちこちの屋根、庇《ひさし》を粉砕しはじめた。
「いまは」
と、はやろうとする一同を歳三は再びおしとどめ、
「二発や三発の砲弾に何ができる。酒宴の花火だとおもうことだ」
と全員が汲みおわるまで隊列を鎮め、やがて、
「二番隊進めっ」
と、雷のような声を発した。二番隊組長は、永倉新八である。島田魁、伊藤鉄五郎、中村小二郎、田村太二郎、竹内元三郎ら十八人である。
「進め」
といっても、前は自陣の奉行所の塀。
それを永倉らは、乗りこえ乗りこえして、路上にとびおりた。
「やった」
と、林権助、すばやく奉行所の北方に構築してある柵門《さくもん》をひらき、砲を進出させ、初一発を薩摩の竜雲寺山の砲兵陣地に撃ちこんだ。それにつれて後門を守っている新選組百五十人が路上に突出しようとしたが、歳三は押しとどめ、
「まあ、首途《かどで》の祝い酒を汲め」
と、用意の酒樽の鏡をぬいた、という伝説が土地に残っている。
みな、|ひし《ヽヽ》ゃく《ヽヽ》をまわして酒をのみ、全員が飲みきらぬうちに、御香宮と竜雲寺山の二カ所から撃ちだす薩摩の砲弾がやつぎばやに落下してきて、あちこちの屋根、庇《ひさし》を粉砕しはじめた。
「いまは」
と、はやろうとする一同を歳三は再びおしとどめ、
「二発や三発の砲弾に何ができる。酒宴の花火だとおもうことだ」
と全員が汲みおわるまで隊列を鎮め、やがて、
「二番隊進めっ」
と、雷のような声を発した。二番隊組長は、永倉新八である。島田魁、伊藤鉄五郎、中村小二郎、田村太二郎、竹内元三郎ら十八人である。
「進め」
といっても、前は自陣の奉行所の塀。
それを永倉らは、乗りこえ乗りこえして、路上にとびおりた。