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燃えよ剣50

时间: 2020-05-26    进入日语论坛
核心提示:北  征歳三ら、新選組は、関東にもどった。自然筆者も、ここから稿をあらためて、「北征編」とする。おそらく土方歳三の生涯に
(单词翻译:双击或拖选)
北  征

歳三ら、新選組は、関東にもどった。自然筆者も、ここから稿をあらためて、
「北征編」
とする。
おそらく土方歳三の生涯にとってもっともその本領を発揮したのは、この時期であったろう。
歴史は、幕末という沸騰点において、近藤勇、土方歳三という奇妙な人物を生んだが、かれらが、歴史にどういう寄与をしたか、私にはわからない。
ただ、はげしく時流に抵抗した。
すでに鳥羽伏見の戦い以降、それまで中立的態度をとっていた天下の諸侯は、あらそって薩長を代表とする「時流」に乗ろうとし、ほとんどが「官軍」となった。
紀州、尾州、水戸の御三家はおろか、親藩、さらに譜代筆頭の井伊家さえ、官軍になった。
徳川討滅に参加した。
と書けば、時流に乗ったこれら諸藩がいかにも功利的にみえるし、こっけいでもあるが、ひとつには、京都朝廷を中心とする統一国家の樹立の必要が、たれの眼にもわかるようになっていたのである。
かれらは、
「日本」
に参加した。
戦国割拠以来、諸藩が、はじめて国家意識をもったことになる。
しかし、「日本」ではなく、薩長にすぎぬという一群が、これに抵抗した。
抵抗することによって、自分たちの、
「侠気」
をあらわそうとした。
といえば図式的になってかえって真実感がなくなる。
まあ、小説に書くしか仕様がないか。
 いったん品川に駐屯した新選組が、江戸丸之内の大名小路にある鳥居丹後守の役宅に入ったのは、その正月の二十日である。
隊士は四十三名。ただしそのうちの負傷者は、横浜の外人経営病院に収容されていた。
生き残りの幹部は、永倉新八、原田左之助、斎藤一といった結党以来の三人のほかに、隊中きっての教養人といわれた尾形俊太郎、人斬りの名人といわれた大石|鍬次郎《くわじろう》など。
沖田総司は療養中。
近藤のほうの傷は、江戸に帰ってからめきめきよくなり、城へも駕籠で登城できるまでになった。
「歳、やはり江戸の水にあうんだよ」
「いいことだ」
といっているうちに、千代田城中で、近藤は奇妙な人物に出逢った。
格は芙蓉《ふよう》ノ間《ま》詰めで、家禄四千石、それに役高、役知を加えて一万石という大身の旗本である。
甲府勤番支配佐藤|駿河守《するがのかみ》であった。
奇妙なのは、その人柄ではない。小声で近藤に耳うちした内容である。
「近藤殿、内密で話があるのだが」
といった。
じつをいうと、幕府瓦解(ただし徳川家とその城池、直轄領は残っている)とともに佐藤は、甲府勤番支配としての今後の処しかたを閣老に相談するために江戸にもどったのである。
ところが、老中連中はそれどころではなく、ろくに佐藤の相談に乗ってくれず、
「よきように、よきように」
というばかりであった。
佐藤はこまった。
甲府は、百万石。
戦国の武田家の遺領で、その後は徳川家の私領(天領)になっている。佐藤駿河守は、その百万石を管理する「知事」なのだ。
「いま、東山道を、土佐の板垣退助が大軍をひきいて東下している。この東山道軍の主たる目的は、甲府百万石を官軍の手におさえることですよ」
「ふむ」
わかることだ。朝廷軍といっても諸藩寄りあい世帯で、京都政府には領地というものがない。
幕府領をおさえるほかなかった。
「なるほど、甲府か」
「このままでは、官軍に奪《と》られるばかりですよ」
甲府城には、江戸からの勤番侍が二百人いるのだが、ほとんど江戸へ引きあげているし、あとは、幕府職制上非戦闘員ともいうべき与力職が二十騎、ほかに同心が百人いるきりで、どちらも地役人だから、戦さには参加すまい。
「空き城同然です」
「ほう」
近藤は、思案のときのくせで、腕組みをして聞いている。
「それで、私に甲府城をどうせよと申されるのか」
新選組の手で奪え、と佐藤駿河守はいうのである。
(おもしろい)
と、近藤は、佐藤ともども老中の詰め間へ行った。
「よかろう」
と老中河津伊豆守|祐邦《すけくに》がいった。
実のところ、徳川家は大政奉還をしたが、まだ徳川領四百万石、旗本領をふくめて七百万石は失っていない。
新政府は、領地をも返上せよ、と迫り、その押問答が鳥羽伏見における開戦の一原因になった。
徳川家の拒否は、理屈としては当然なことで、政権を奉還して一大名になった以上、他の大名が一坪の土地も返上していないのに、徳川家だけが返上せねばならぬ理由はない。
第一、返上してしまえば、旗本八万騎は路頭に迷うではないか。
一方、新政府が諸道に「官軍」を派遣して徳川慶喜討滅の戦いをはじめたのは、さしせまっては、
「土地」
の奪取が現実的目的であった。
ところが。
かんじんの徳川慶喜は、あくまで謹慎恭順して、ついには江戸城を出、上野寛永寺の大慈院に移ってしまっている。
徳川領を軍事的に防衛する肚はない。
(だから、甲府百万石は宙に浮いている。官軍はそれを拾いにくるだけだ。されば官軍が来る前に押えてしまえば、こっちのものではないか)
と近藤は、考えた。
老中の意見も同様である。
「新選組の手で、押えられますか」
と、河津伊豆守がいった。
「出来ます」
「それなら、押えてもらいたい。軍資金、銃器などは、出来るだけ都合をする」
このとき、老中の河津か、同服部筑前守かが、冗談でいったらしい。
「甲州を確保してもらえるなら、新選組に五十万石は分けよう」
分けるに価いするほどの大仕事だ、という意味なのか、それともまるっきりの冗談だったのか、いずれにしても近藤の耳には、
「分けてやる」
ときこえた。
云った連中も、たかが知れている。幕府瓦解後の老中というものは、すでに政府の大臣ではなく、徳川家の執事にすぎない。身分も、かつては譜代大名から選ばれたものだが、いまでは旗本から選ばれ、それもそろって無能で、いやたとえ能吏でもこの徳川家をどうさばいてよいか方途もつかぬ事態になりはてている。
いわば、どさくさなのだ。
(五十万石。——)
近藤は、正気をうしなわんばかりによろこんだ。

「歳、五十万石だとよ」
と、近藤は、大名小路の新選組屯所にもどってくるなり、声をひそめていった。
「それより、傷はどうだ」
「痛まねえ」
傷どころではなかった。
「歳、さっそく一軍を作って甲州城へ押し出すんだ」
近藤は、京都時代の末期には、諸藩の周旋方と交遊したり、土佐の後藤象二郎などに影響されて、いっぱしの国士に化《な》りかけていたが、やはり地金が出た。
近藤も相応な時勢論をもっていたのだが、甲府五十万石のつかみ取り案の一件が、わが近藤勇をして三百年前の戦国武者に変えてしまった。かれにとって、この戊辰《ぼしん》戦乱は、戦国時代のように思えてきた。
「近藤さん、正気かね」
と、歳三は顔をのぞきこんだ。
「私は京都のころ、あんたが公武合体論などをとなえて、——勤王はあくまで勤王、しかれども政治は江戸幕府が朝廷の委任によって担当する、などという理屈をさかんに諸藩の周旋役に吹きまわっていたのを、私は柄《がら》にもねえと思って忠告したことがあるが、こんどは風むきがかわったようだ」
「歳、時勢が変わった。お前にゃわからねえことだ」
「時勢がねえ」
といったが、喧嘩屋の歳三には、甲州に進撃して百万石をおさえるという大喧嘩は、近藤とは別の意味で、たまらなく魅力でもあった。
(こんどは、洋式でやってやる)
懐中には、例の「歩兵心得」がある。
「歳、すぐ募兵しろ」
「そうしよう」
と、歳三はそのことに奔走することになった。
近藤も、毎日登城し、老中に会ってはできるだけ大軍を編成するように交渉した。
大軍を募集するには、まず指揮官の身分が必要であった。
幕閣では、近藤を「若年寄」格とし、歳三には「寄合席」格を与え、謹慎中の慶喜の裁可を得た。
「大名だよ」
と、近藤はいった。
そのとおりであった。若年寄といえば、十万石以下の譜代大名である。歳三の寄合席というのも、三千石以上の大旗本であった。
しかし幕府はすでに消滅している。徳川家としては、この二人にどういう格式を濫発しても惜しくはなかったのであろう。
老中たちは、
「おだてておけば役に立つ」
と、思ったにちがいない。近藤はたしかに時勢に乗っておだてられさえすれば、器量以上の大仕事のできる男であった。
近藤は、毎日の登城にも、長棒引戸《ながぼうひきど》の大名駕籠に乗ってゆくようになった。
一方、歳三は、洋式軍服を着た。
「歳、なんだ、寄合席格というのに、紙クズ拾いみてえなかっこうをしやがって」
と、近藤がまゆをひそめた。
「戦さにはこれが一番さ」
鳥羽伏見の戦場で、薩長側の軽快な動作をみて、うらやましかったのだ。
軍服は、幕府の陸軍所から手に入れたラシャ生地、フランス陸軍式の士官服である。
募兵は容易に進まなかった。
ところが、近藤、沖田の治療をしている徳川家典医頭松本良順が、
「浅草弾左衛門を動かせば?」
と、近藤と歳三にいった。
弾左衛門は、幕府の身分制度によって差別された階級の統率者である。
近藤は老中に交渉し、この階級の差別を撤廃せしめ、かつ弾左衛門をして旗本に取りたてる手続きをとってやった。
弾左衛門は大いによろこび、
「人数と軍資金をさしだしましょう」
と、金は一万両、人数は二百人を近藤の指揮下に入れた。
土方は、これら新徴の連中に洋式軍服を着せ、即成の洋式調練をほどこした。
調練といっても、ミニエー銃(元込め銃)の操法だけだが、近藤は、
「歳、いつのまに身につけた」
と、おどろいた。
徳川家からは、砲二門、小銃五百挺が支給され、軍の基礎はほぼ成り、名称は、
「甲陽鎮撫隊」
とした。
幹部は、新選組旧隊士である。
入院加療者のほかに十数人が脱走したため、二十人足らずにまで減ってしまっていた。
しかし、近藤は毎日上機嫌であった。
ある日、歳三が調練から帰ると、
「歳、これが甲府城(舞鶴城)の見取図だ」
とひろげてみせた。
「ふむ」
歳三は、ほぼ見当がつくし、江戸から甲府への道(甲州街道)も、若いころ薬の行商をして何度往復したかわからない。
予想戦場として、これほど都合のいい地方はなかった。
「甲州をおさえた場合、それぞれの石高をおれは考えてみた」
「ふむ」
歳三は、近藤の顔をみた。
相好《そうごう》をくずしている。
「おれは十万石、これは動くまい。歳には五万石をくれてやる」
「………」
「総司(沖田)のやつは病気だが、これには三万石。永倉新八、原田左之助、斎藤一ら副長助勤にも三万石。大石鍬次郎ら監察には一万石、島田魁ら伍長連中には五千石、平隊士にも均等に千石」
「ほう」
「どうだ、右は老中にも話してある。諒承も得た」
「あんたは、いい人だな」
歳三は、本心から思った。
幕府瓦解のときに、大名になることを考えた男は、近藤勇ただ一人であったろう。
「戦国の世にうまれておれば、一国一城のあるじになったひとだ」
「そうかね」
「ただ、いまは戦国の世じゃねえよ。たとえ薩長をぶち破って徳川の世を再来させえたとしても、大名制度は復活すまい。フランス国と同様、郡県制度にしようという考えが、大政奉還以前から、幕閣の一部にはあったときいている」
「洋夷《ようい》かぶれのばかげた意見さ。権現様《ごんげんさま》以来の祖法てものがある」
「まあ、どっちでもいいことだ」
歳三は、作戦計画に没頭していた。致命的なことは、兵力の不足であった。せめて二千人はほしかった。
(二百余人で果して甲州がとれるか)
甲府城に入城すれば、土地の農民によびかけて、増兵をする予定ではいる。それがうまくゆくか、どうか。
「なに、大丈夫さ。城をとれば、すでに百万石の領主と同然だ。郷士、庄屋に命じて村々で壮士を選ばせれば、万はあつまる」
と、近藤は楽観的であった。
なるほどそうかも知れない、と歳三はおもった。世情が、こうこんとんとしてしまった以上、何事もやってみる以外に見当のつけようがない。
出発にさきだって、歳三は平隊士数人をつれ、神田和泉橋の医学所の一隅で寝ている沖田総司の病状を見舞った。
見舞った、というより、医学所は、もう閉鎖同然になり医者もいなくなっていたから、沖田の体を別の場所に移すためであった。
総司のただ一人の肉親である姉のお光、それにお光の婿沖田林太郎(庄内藩預り新徴組隊士)も一緒だった。
あたらしい療養場所は、林太郎の懇意で千駄ケ谷池橋尻に住む植木屋平五郎方の離れをかりることになっている。
沖田はすっかり病み衰えていたが、声だけは意外に張りがあり、
「土方さん、私は三万石だそうですね」
と、くすくす笑った。
「なんだ、近藤がいったのか」
「いいえ、先日、見舞いにきた相馬《そうま》主計《かずえ》君が教えてくれましたよ」
(すると、近藤は一同に話したらしいな)
近藤にすれば、士気を鼓舞するつもりで、打ちあけたのだろう。
しかし相馬などは、沖田を見舞いにきたその足で脱走してしまっている。万石、千石の夢も、もはや隊士を釣れなくなっている証拠であった。
「総司、よくなれよ」
「ええ、三万石のためにもね」
と、沖田はまたくすっと笑った。
歳三は、千駄ケ谷の植木屋まで沖田を送ると、その足で屯所へもどった。
あすは、甲州へ発つ。
(こんどこそ、洋式銃で対等の戦さをしてみごと伏見のあだを討ってやる)
二重《ふたえ》の厚ぼったい眼が、あいかわらずきらきらと光っていた。
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