放心和信任似相同却又不同。据社会心理学家山岸俊男先生说,所谓安心就是无论他人做什么,都不必用心关注的状态。比如,只要三藏法师念起咒语,悟空头上的紧箍咒就会缩紧,这样他就没有必要悟空会背叛。
これに対し、輪がはまっていなければ、悟空は裏切るかもしれない。用心が必要になる。にもかかわらず、悟空の性格や三蔵法師に対する感情からして裏切るまいと考える。それが信頼だというのが山岸さんの定義である。きのうの本紙オピニオン面「どう思いますか」の特集を読んで、両者の違いを思い出した。
与此相对,如果没套紧箍咒,那么悟空说不定就会背叛。这样就有用心的必要了。不管如何,从悟空的性格和对三藏法师的感情来讲,背叛这种事根本不用考虑。山岸先生将其定义为信赖。昨天本报的“开放”版面上,读到了题为《如何思考》的特集,让我想起了两者的差异。
きっかけは、声欄に載った35歳のお母さんの投稿だ。街中で、1歳半の娘の頭を見知らぬ高齢男性が触ろうとしたことへの困惑をつづる。「せめて一声かけて」という訴えだ。
起因是登载于该栏上的35岁母亲的来信。这位母亲对在大街上有陌生老年男子触摸1岁半女儿的头,感到为难。她抱怨说,“发点声音也好啊”。
多くの反響があり、4通が特集に掲載された。色々な事件が起こる現代の母親は常に緊張を強いられているという共感から、親が用心するのは当然だが、もう少し力を抜いてみてはというアドバイスまで。力点の置きどころは違っても、どの声も温かい。
人们的反应多种多样,有四则意见登载于特集上。当代社会百态丛生,母亲被迫处于紧张状态,从这一共同点来讲,父母用心无可厚非。有人还建议,试着稍微放松下。无论哪种声音都非常柔和,即便有人认为她的着力点有欠妥当。
赤ちゃんはお年寄りに好かれる。電車の中や公園で、「かわいいねえ」と親子に声をかける姿を時々見かける。親との会話が弾み、知らない同士がふれあう光景は、周りの人も和ませる。
老年人喜欢小孩子。在电车中、在公园里,时常可以看到他们对着带着孩子的父母说“真可爱”的样子。他们与家长攀谈,素未谋面的同仁相互交际的场景,让周围的人也感到平静。
山岸さんの区別に戻れば、見知らぬ人との間に安心は成り立たない。ただ、さりげない言葉のやりとりや気配りが、その場にささやかな信頼を生むことはある。
话回山岸先生说提到的区别,与陌生人之间,放心是无法建立的。但是,若无其事的言语交际和关注,在这种情况下有时会产生些许信赖。