国会内外的拉锯战即便已经过去了2个月半,但议论、宣扬自己主张的热情仍没有衰退。前天,我听了在国际基督教大学召开了围绕宪法与安保法制的讨论会,才会作此感想。
軍事という価値が社会の前面に出てくると「自由は切り下げられ、極端にいえば切り捨てられる」。憲法学者で東大名誉教授の樋口陽一さんが警鐘を鳴らした。9・11テロ後の米国社会などを見れば明らか、との指摘にうなずく。
一旦军事的价值出现在社会前面,那么“自由就会被贬低,说的极端点,就是会被舍弃。”宪法学者、东大名誉教授樋口阳一先生敲响了警钟。他指出,看看9•11之后的美国社会,你就会清楚这是什么,我对此深表赞同。
軍事に戦前のような特権的な地位を認めない憲法9条の役割の核心は、そこにあったという。自由な社会の「下支え」である。たとえば表現の自由などの条文も、9条がなければ空文となったかも知れない。軍事は「じかに」自由を脅かすから、と。
宪法第九条最重要的任务就是不承认军事有战前那般具有特权的地位。这是自由社会的“支撑”。如果没有宪法第九条,那么表达自由的条文或许会变成废纸一张。军事会“立刻”威胁自由。
平和と自由は切り離せない。そのことは、きのう都心であった安保法廃止を求める大きな集会でも語られた。自由とは何か。樋口さんの以前の言葉を思い出す。日本社会の中での「批判の自由」こそ、まさに「自由そのもの」なのだ――。
和平与自由是不可分割的。昨天在东京都中心举办的要求废止安保法的大型集会上也被提及。所谓自由是什么?我想起了樋口先生以前的话语。日本社会中的“评论自由”正是“自由本身”。
昨今、現政権に批判的と見られる表現が、「偏っている」と指弾される事例が相次ぐ。権力は制限されなければならないという立憲主義の根幹からすれば、批判への抑圧は自由そのものの否定につながりかねない。
最近,对现政权批判性的言论被指责为“偏颇”的事例相继发生。从立宪主义限制权力的本质来看,或许对批判的抑制就是对自由的否定。
安保政策や憲法をめぐる論争は尽きない。異論が様々に出て、対立し、比較検討されることの意義は大きい。ただ、それは自由で風通しのいい言論空間があってこそだ。報道を担う者の責任の重さを改めて思う。
围绕安保政策和宪法的争论远未结束。不同的言论不断涌现,并发生对立、比较讨论是非常重要的。但是,这一切的都是因为存在能自由讨论的言论空间。我重新认识到负责报道的媒体人的重大职责。