落语《粗心大杂院》非常有意思。这是第五代柳家小先生的拿手好戏,故事中八五郎是个急性子的马大哈。而其兄弟熊五郎则是个慢吞吞的糊涂虫。这两人反复上演着一幕幕的闹剧。
浅草の観音様からの帰り、八五郎は行き倒れに出くわし、「熊の野郎だ」と思い込む。しかも「当人」を連れてきて身元確認させると言い出す。荒唐無稽だ。「おめえ、昨夜(ゆんべ)死んでるよ」。八にそう言われ、熊も次第にそんな気になる。そして2人で遺体を引き取りに……。
八五郎拜完了浅草的观音,在回家的路上遇见了饿死在路边的人,于是他觉得这是“熊这个家伙”。而且还说要将这位“当事人”带回去以便确认身份。真是荒唐可笑。回家后他对熊五郎说,“你,昨天死掉了。”被八五郎这么一说,熊五郎也随之觉得的确如此。于是两人去拖尸体去了……。
長屋にいるのに路上にもいる。生きているのに死んでいる。明白な矛盾が見えない2人。当然、町内の世話役たちとは話が全く通じない。不気味といえば不気味な世界を、抱腹絶倒の一席に仕立てるのだから、落語という芸術は奥深い。
明明就在大杂院;明明还活着却认为死掉了。这两人对着明摆着的矛盾视而不见。当然,跟镇里的管事人也完全无法沟通。虽然这故事有点荒唐,但在观众捧腹大笑间,却呈现出世界令人恐惧的一面,落语这门艺术真是意义深远。
話が全く通じないといえば、今年1年の日本もそうだった。安保法制をめぐる違憲合憲の論争は交わらなかった。米軍基地の移設問題をめぐる沖縄県と官邸との対立も同様だ。粗忽者がいるのかいないのか、言葉の通い路が失われていた。
说起完全无法沟通,今年一整年的日本也是这副样子。围绕安保法制的是否符合宪法的争论根本无法交流。围绕美军基地的搬迁问题,冲绳县和内阁的对立也是如此。不管是否存在粗心的人,语言沟通的道路已然断绝了。
落語に戻れば、熊五郎は最後、「自分の」遺体を持ち帰ろうと抱きかかえる。訳がわからなくなってくる。「抱かれてんのは確かに俺だが、抱いてる俺は一体誰だ……」というのが、この噺の下げである。
话归落语,熊五郎最后紧紧抱着“自己的”遗体回家了。他根本不讲任何道理了。“被抱着的确实是我自己,但抱着我的我究竟是谁啊……”,这是其结尾。
やっと矛盾に気づく瞬間。藤山直樹著『落語の国の精神分析』によれば、「人間という考える葦(あし)が再び芽ぶく瞬間」だ。年が改まる。葦が芽ぶき、少しは話が通じるようにと願う。
在这一瞬间,他终于注意到了这一矛盾。藤山直树先生的著作《落语之国的精神分析》上说,“在这一刹那,思考人类这一生物的芦苇再次发芽了。”年龄将要增长,芦苇也又要发芽了,希望日本也能稍稍变得讲理一点。