有种说法叫“倘若”。其大致意识应该是在假定与现实不同的情况下谈论事情吧。“毫无意义的讨论”,词典的注释毫不留情。它就是一句俗语。文部科学大臣驰氏在23日的记者会上,以假设的情况为借口拒绝回答记者的提问。
「私が学長であったとしたら」。そんな前置きを何回か繰り返しながら語ったのは、国立大学の卒業式や入学式での日の丸、君が代の問題だ。「国旗掲揚、国歌斉唱を厳粛のうちに取り扱うと思っている」。
该提问是“如果我是校长”。之所以多次谈到这种前置,其源于国立大学的毕业仪式和入学仪式中涉及国旗日之丸和国歌君之代的问题。他说,“应严肃对待升国旗、奏国歌这一过程。”
岐阜大の学長が今春の式で国歌斉唱をしない方針を示したことへの批判である。国立大は税金で支えられているのだから、式典ではすべての納税者に感謝し、国旗、国歌を重視すべきだ、という論理らしい。それをしないのは「恥ずかしい」と。
对于岐阜大学的校长在今年春天的仪式上做出不齐唱国歌的方针,他做了如上批评。因为国立大学是靠税金维持的,所以在这些典礼上应该对所有纳税者表示感谢,并重视国旗、国歌,这是他的论点。他还说,他们没有做这些就是一种“耻辱”。
たらればの話として語るのは、大学の自治への介入という批判をかわす意図なのだろう。憲法は学問の自由を保障し、教育基本法は大学の自主性と自律性をうたう。小中高校には学習指導要領があるが、大学にはない。斉唱を指示する根拠がないことは馳氏も承知だ。
而驰氏之所以用假设来谈这个问题,其目的是回避干涉大学自治的批评。宪法保障学术的自由,教育基本法则宣扬大学的自主性和自律性。中小学校有学习指导要领,而大学并没有。驰氏自己也知道要求齐唱国歌是毫无根据的要求。
だが、大学運営に不可欠な国の交付金に「感謝」を促し、式次第に「適切な」判断を求めると言えば、圧力と受け取られても仕方がない。鎧(よろい)を隠す衣になっていない。
但是,敦促大学方面对在运转中不可或缺的补贴表示“感谢”,并在仪式中要求其作出“适合”的判断,在这种情况下,承受压力可以说是无法避免的。看来这一套表面功夫不行。
たかが式典、ではない。国歌斉唱の際の起立命令が思想・良心の自由を間接的ながら制約することは、最高裁も認めている。あの時もっと気をつけていたら……。そんな後悔をしないためにも、今、目を光らせる必要がある。
这并非是用金钱衡量的典礼。齐唱国歌时,要求全体起立的命令间接地制约了思想和良心的自由,最高法院对此也是做出过认可的。那个时候更注意点就好了……。为了不再发生这种后悔,现在有必要睁大眼睛,仔细观察。