去年夏天去世的小尻女士是在她儿子去世后才开始吟诵俳句的。身为朝日新闻阪神支部记者的知博先生在1987年的宪法纪念日的晚上,被出现在支部的嫌犯开枪射杀了。
みよ子さんは56歳だった。〈幸福を一しゅんにして谷底に〉。そんな言葉をチラシの裏などに記すようになった。そうでもしないと耐えられなかった。〈声も出ず唯(ただ)夢なれと足すくむ〉。なぜ息子があんな目に遭うのか。答えのない問いが胸でうず巻いた。
那年小尻女士56岁。“幸福一下子沉入谷底”。她将这些话语记录在了私人文章中。如果不这样做,悲伤之情就无法忍耐。“声音也发不出,非常害怕做梦”。为什么儿子会遭遇这种不幸呢?在她心中,这一无法回答的问题掀起万丈波澜。
〈帰ってよ奇跡おきれば帰ってよ〉。季語はない。切れ字もない。思いをひたすら五七五に落とし込む。〈あれほどに親子どんぶりねだりしに〉〈明日無き身知らずと叱る母の胸〉。悔いの波がいつまでも押しよせた。
“回来吧,发生奇迹,回来吧”。俳句中没有季语,也没有结尾词。在五七五共17字的俳句中融入了自己全部的感情。“你是多么想让我做亲子盖浇饭”;“不知明日你将不在,母亲还在斥责你”。悔恨的情绪总是将她压得喘不过气来。
毎朝、夫と連れだって墓地に通い息子に語りかけた。「おはようさん、知博さん。きょうは雨が降って冷たいね」「一人で淋(さび)しいね。いまはお母さん何もしてあげられないでごめんね」。墓は瀬戸内海に面した丘にたつ。〈知博に会いに行く道今日も過ぎ〉。
每天清晨,她都会在丈夫的陪伴下去给儿子上坟、聊天,“早啊,知博。今天下雨了,有点冷”;“一个人真是寂寞啊。现在的妈妈什么也做不了,抱歉”。其墓在面对濑户内海的山丘上。“走在去见知博的路上,今天也如此度过”。
捜査は実らず、無念の時効を迎えた。久しぶりに阪神支局を訪れたときは75歳。息子に招かれた気がした。〈吾子(あこ)の座のソファー白線梅雨じめり〉。倒れた際の頭部の位置に捜査員の引いた線が残されていた。
案件的调查毫无进展,最终迎来了失效期。在她75岁那年,她再次来到许久不来的阪神支部。她感觉是她儿子叫她前来。“儿子坐的沙发,画有白线,就像是梅雨的霉斑”。按照知博先生中弹倒下的样子,探员在其头部的位置画上了白线。
晩年は車イス生活が長かった。夫に先立たれ、句の数も減った。息子のもとへ旅立ったときは84歳。再会したいま、ねだられなくても、息子の好物だった親子どんぶりに腕をふるっていることだろう。
晚年的小尻女士依靠轮椅生活了很久。她先丈夫而去,俳句也很少。84岁的她,踏上了去看儿子的旅途。在再会之际,不用儿子要求,她也会尽心尽力去做儿子喜欢吃的亲子盖浇饭,一定是这样的。