在这个夏天的参议院选举中,全国投票率最低的地区是高知县。相对于全国平均55%的投票率,高知只达到46%。而备受人们瞩目的最幼人群的投票率也是高知县位列全国末尾,只有31%。
地元では「合区に意欲をそがれた」という嘆きをしきりに聞く。一票の格差を小さくするため選挙区が隣県徳島と高知で一つとされ、しかも候補を徳島出身者が占めた。
在当地,时不时可以听到这样的叹息,“因为合区,所以人们失去了投票的兴趣”。为了缩小一票之间的差距而把邻县德岛和高知的选举并为一块,而且候选人也是德岛人。
「ビリは何とも残念。合区さえなければこの結果はなかった。元来は政治意欲の高い土地です」。元県議で高知近代史研究会長の公文豪(くもんごう)さん(68)は話す。明治期の自由民権運動の歴史に詳しい。
“排名垫底让人感觉非常遗憾。但没有合区的话,就不会出现这种结果。因为其原本是一块政治参与欲望很高的地区”,原县议员、高知近代史研究会长公文豪先生(68岁)如此说到。其对明治时代的自由民权运动的历史非常了解。
その頃の熱気を伝える人物として公文さんがまず挙げるのは「民権ばあさん」こと楠瀬喜多(くすのせきた)。夫を亡くして戸主となった。「納税しているのに投票させないのはおかしい」と女性の参政を求めた。町の議会では認められたが、4年後に中央政府が覆す。死後70年がたち、地元に「婦人参政権発祥之地」の碑が建った。
在那时诸多的风云人与中,公文先生首先列举了“民权奶奶”楠濑喜多。在丈夫去世后,她成为了户主。她要求女性参政的权力,说“我们纳了税,却不能投票,这不是件很奇怪的事情吗?”后来町议会认可了其权力,但四年后却被中央政府否决了。在她死后70后,当地树起了写着“妇女参政权力发祥地”的纪念碑。
もうひとりは自由民権思想の理論家として知られる植木枝盛(うえきえもり)である。17歳で政治に目覚め、19歳で「表現の自由の抑圧は人を猿にする」と政府を批判した。政府は表現の自由を嫌うこと、憲法は権力者を縛る道具であることを平易な言葉で説いた。「悪(わ)るき政府が世に在(あ)ると(略)民の自由を抑へ制(つ)け(略)議論を封じ口を閉ぢ」といった歌を残した。
另外他还列举了作为自由民权思想理论家而广为人知的植木枝盛先生。他17岁就对政治非常感兴趣,19岁时就批判政府“抑制人们表达自由就是把人当猴子看”。他用平易近人的言辞讲述了政府厌恶言论自由以及宪法是束缚当权者权力工具的事实。他还留下了这样一首诗歌,“世间存在恶政府.......抑制民众自由......封闭人们表达的途径”。
喜多といい枝盛といい、卓見は時代を先取りしている。高知の先人たちが放っていたまばゆいほどの政治参加の光はどこへ去ったのだろう。
无论是喜多还是枝盛,其卓见都领先于时代。高知县的先人们所绽放的参政的光辉,现在又到哪里去了呢?