“我”在中国战争乘船转移时,认识了因为打瞌睡而落水,又胆小又糊涂的小队长,并产生了一段奇妙的友情……。上周,我第一次翻开了以99岁高龄去世的作家伊藤桂一先生的直木奖获奖作品《萤火虫之河》。它平静地描写了士兵们的日常生活,读后竟然有种温馨的感觉。
大正6(1917)年生まれ。4歳の時、住職だった父を交通事故で失う。母子で寺を出た。進学や教職をあきらめて入隊したのが21歳。歩兵や騎兵として、大陸を計7年近く転戦した。
他生于大正六年(1917年)。4岁时,因为交通事故失去了当主持的父亲。后来母子两人搬出了寺院。放弃了升学和教师岗位后参军,那年他21岁。作为步兵和骑兵,他在大陆转战近7年。
代表作「静かなノモンハン」は日ソ両軍がモンゴルの東端でぶつかった昭和14(1939)年の戦いを、生存兵からの聞き取りで詳述した。自分たちは何の狙いで送り込まれたのか。それすら教えられぬ若者たちがやみくもに殺し殺されていく。
其代表作《平静地诺门坎》通过采访生还士兵详细讲述了昭和14年(1939年)日苏两军于于蒙古东部发生的战斗。我们究竟是为了什么而被送去了那里?连这一点都没被告知的年轻人就在那里乱杀一气。
詩「連翹(れんぎょう)の帯」からは前線で倒れた兵士の肉声が聞こえてくる。〈砲弾は歌いながら空を渡ってきました〉〈遺骨は罐詰(かんづめ)の空罐に納めます 背負って歩くと骨が歌います〉。激戦地には黄一色のレンギョウが鮮やかに咲いていた。
从《连翘地带》一诗中,我听到了倒在前线的士兵的嘶吼。“炮弹呼啸着划过长空”;“遗骨塞进了空置的罐子,一边走,一边听到背上的骨头在歌唱”。在激战地,金黄的连翘开得正艳。
「私たち大正生まれは戦争で一番使われた世代。中学の同窓生は半分くらいが戦争で死んだ」と本紙に語った。後の世代に戦争の実相を伝えることを自らの使命とした。
“我们出生在大正时代,那是第一批被投入战争的人。我一半的中学同学都在战争中死去”,他曾对本报如此说到。他把告诉后代们战争真相当做了自己的使命。
伊藤さんが語った通り、戦争には常に「命令する側」と「命令される側」がある。自衛隊がはるか異邦に派遣され、その任務は重くなる一方だ。戦場で「される側」に属し、戦後は「される側」の声を拾い続けた作家は何を思っていただろう。
正如伊藤先生说的那样,战争中通常存在着“命令方”和“被命令方”。自卫队将被派遣到海外,并且这任务只会愈来愈重。在战场上,他属于“被动”方,而在战后这位作家又在持续地记录下“被动方”的心声,对此,他又作何感想呢?