文豪“ツルゲーネフ”应该写作“ツルギエニエフ”(屠格涅夫);作曲家“ドビュッシー”应该写作“ヅビツシイ”(德彪西)。1917年2月本报刊登过这样一篇文章。距今100年前的大正6年,值得纪念的读者投稿栏开设。
反論が8日後に載る。「日本の発音で正しくは出ない外国音がある(略)ツルギエニエフと文字に御書きになっても、田舎のおぢさんに読まして御覧なさい、何と聞(きこ)えますか」
其后在8日,刊登出了一篇驳论,其称“有些外国音节无法用日本发音来准确描述……把'ツルギエニエフ'写成汉字然后让乡下的老头去读,你又能听出些什么来呢?”
これらが載った「鉄箒(てっそう)」はもともと記者の書く欄だったが、読者の投稿を載せるようになった。その後、「声」に看板を改めた。1945年、敗戦の3カ月後に載った「夫よいづこ」は、安否のわからぬ夫を思って妻が泣く。食糧難を見かねて「一握の米を」と農家に呼びかける女性もいた。
登载这些文章的《铁帚》原本是记者专栏,但它却登载了读者的来稿。随后,改名为“声”。1945年,在日本投降后的第三个月登载的《夫よいづこ》(丈夫是否平安)一文中描写了一个不知丈夫死活而哭泣的妻子形象;还有女性不断目睹粮食苦难而向农民哀求“请给我一把米”。
投書に鼓舞されることもある。1987年、朝日新聞阪神支局で記者が殺傷された直後の投書が胸にある。「暴力に屈するな」。記者に萎縮せぬよう訴える一文だった。
除此之外,还有读者来稿鼓舞我们。我依旧清晰记得1987年,在朝日新闻阪神支部发生记者死伤事件之后马上就有读者来信(鼓励我们)。“不要屈服于暴力”。那篇文章鼓励我们记者不要害怕退缩。
おととしの夏、国会前で読み上げられた「声」の投稿も忘れがたい。安全保障関連法案に反対して国会前に集う人々の前で、学生がマイクを手に朗読した。特攻作戦で多くの友を失った日々を悔い、政治に声を上げた若者に感謝する内容だった。筆者も耳を傾けた。
我不会忘记这一幕,在前年夏天于国会大门前高声念诵的《声》中的一篇文章。有学生手持麦克风站在反对安保法案的人们面前大声朗诵因为特攻作战失去朋友的悔恨以及对年轻人直言政治观念的感谢。
「今でも新聞の隅から隅まで目を通しています。色々な人の体験や意見がわかる『声』が一番楽しい」。先日の投書の主は100歳の女性だった。色々な人の体験や意見を世に届ける。100年変わらぬ新聞の存在理由だろう。
“时至今日我也每天仔细阅读报纸。最喜欢看让人知道各种人想法的《声》栏。”前几天登载的这篇文章的作者是一位百岁女性。它把各式人的体验和意见传达到了社会上。报纸存在的理由百年未变。