“妈妈不在身边是不是觉得孤独啊?和小朋友们开开心心地一起玩了吗?好好吃饭了吗”。这是一位母亲写给女儿的信,她小小年纪才6岁便失去了生命。“哪怕是在梦中也想在见上一面,还想再抱一抱她”
東日本大震災の記録として金菱清(かねびしきよし)・東北学院大教授が編んだ近刊『悲愛(ひあい)』は、愛する人たちへの手紙を集めている。夫の仏壇に毎日話しかける理由を妻が書く。そうしないと、将来しわくちゃの顔で会った時に「おまえは誰だ」と言われそうだからと
作为东日本大地震的记录,东北学院大学教授金菱清编纂的近刊《悲爱》收集了对于所爱之人写的书信。妻子书写了每天对着丈夫的佛龛唠家常的理由,因为她觉得如果不这么做,生怕将来老了见到他时,满脸皱纹会不认识,会被问道“你是谁呀”
「私達がここで笑ってる時はきっとアナタも上で一緒に笑ってるんでしょ」とは、姉が妹に贈る言葉だ。震災から6年。残された人たちには、喪失や悼みと向き合う時間がとどまることなく流れている
“我们在这边笑的时候,想必你也一定在天上一起笑了吧”,姐姐给妹妹的赠言如是表达了心声。震灾至今已经6年。对于幸存的人们而言,面对丧失及悼念的时间正在不停地流逝。
あのとき「災後」の言葉は「戦後」になぞらえて語られていた。第2次大戦後の復興に肩を並べるような新しい国づくりが思い描かれた。その期待は惰性に取って代わられたかのようだ。原発避難者への心ない言葉や偏見もなくならない
那时经常谈论的“灾后”,相当于当年的“战后”一词。人们在脑子里描画出为了第2次世界大战之后的复兴,人们并肩建设新国家的情景。然而,满怀的期待似乎正在变化成一种惰性,对于核电站事故造成的避难者所说的冷言冷语以及偏见也并未消失。
被災地の風景が変わり、経験の衝撃は時間とともに弱まる。記憶はおぼろげになり、いつかは忘れられる。だからこそ時折拾い上げ、見つめ直したい
灾区的景象正在发生变化,曾经经历的冲击随着时间将逐渐减弱,记忆变得朦胧模糊,总有一天会被人忘却。因此,还是有必要经常性地提一提,重新审视关注一下。
もし津波がここに来ていたら――。東京・銀座のビルには岩手県大船渡市を襲った高さを示す幕が掲げられていた。5階ほどの高さを見上げ、めまいを覚えた。買い物客らでにぎわう穏やかな週末である。日常のありがたさと、そのもろさを思う。
倘若海啸侵害到这里——。为了提醒人们警惕,东京•银座的大楼上垂挂了一幅帷幕,它显示着海啸袭击岩手县大船渡市的高度。抬头望着相当于5层楼的高度,甚至觉得眼晕。这一天是一个周末,购物顾客熙熙攘攘,此景此景让我们想到了日常生活的珍贵和它的脆弱。