しかし、義経がその後も生存したという説の根拠も、同じく『吾妻鏡』の記述から生まれました。『吾妻鏡』には義経の首実験の様子も書かれており、それによれば、義経の首が鎌倉に届くのは死後43日も経た6月13日とあります。あまりに日数がかかり過ぎているのです。首は美酒に浸されていたといいますが、季節は今の8月に当たる猛暑真っ盛り。首は腐敗することなく運べたのでしょうか。
こうした疑問から、鎌倉へ送られたのは義経の首ではなくニセ首で、顔が判別できないようにわざと時間をかけたとする説が生まれました。そして、泰衡に追い詰められた義経は、平泉から逃げ延び、北へ向かって逃避行を続けたというのです。
東北地方には今でも、義経主従が立ち寄ったという伝承が数多く語り継がれています。岩手県遠野(とおの)では、義経一行はある農家の風呂に入れてもらい、旅の疲れを癒したと伝えられています。あたたかいもてなしに感激した義経は、その家に「風呂」という姓を授け、その家は現在も「風呂」姓を名乗っているとか。
また、三陸海岸の宮古にある黒森神社も、一行が身を寄せた場所と伝えられます。黒森の「くろ」は源九郎義経の「くろう」に由来するのだと。この寺で義経が写経したものの一部も残っているといいます。
さらに義経の伝承は北海道へ渡ります。義経が馬をつなぎ止めたという馬岩、弁慶岬、弁慶の刀掛け岩など、函館、松前から積丹半島にかけての海岸には、義経主従にちなんだ名称が多く残されています。また、日高地方の平取には、その名前ズバリの義経神社があり、そこに祀られた義経の木像は、かつてアイヌの人たちに「ホンカイ様」として崇められていた。ホンカイは判官が変化したものだというのです。