しかし、秀頼には別に子供がありました。側室のお石という女性に、国松という男の子と、女の子の二人を産ませていたのです。この二人の子は、徳川家との関係が険悪になってから、大坂城へ迎え入れられました。
そして、いよいよ落城となったとき、二人はかろうじて大坂城を脱出し、伏見に逃れました。国松は七歳、妹は六歳になっていました。
しかし、結局は二人とも徳川方に捕えられてしまいます。国松は京都の六条河原で処刑され、妹は斬首を許される代わりに、鎌倉の東慶寺に送られました。やがて彼女は、ここで天秀法泰と称し、のちに住持になりました。東慶寺は駆け込み寺、縁切り寺として有名になりますが、それは彼女が住持の時代だったと伝えられています。
彼女は三十七歳で亡くなりましたが、尼僧の身でしたから子供はなく、秀吉直系の血脈はここで絶えてしまいました。