綱吉は、死の直前、家宣に「生類憐みの令は100年後も続けてくれ」と言い残していました。しかし家宣は、綱吉の柩に向かって、「私は、生類憐みの令を100年守ります。でも、天下万民は免除してやってください」と言ったといいます。
家宣は、役人に賄賂を贈ることを固く禁じました。さらに、庶民に将軍行列の参観を認めたり、政治批判の落書さえも自戒にしたりしました。そして、家宣は、「極悪非道の罪人でも、何か許す点がないか捜せ。そして罪を軽くしてやるのが本当の政治なのだ」と語ったといわれます。
しかし、もともと体が弱かった家宣は、わずか3年9ヶ月で病に倒れます。そこで次期将軍を決定しておくのが急務となりました。家宣には4歳の息子・家継がいました。しかし、家宣は家継が将軍になることを否定しました。側近の新井白石を枕元に呼び、「次期将軍を尾張家の吉通に譲ろうと思う」と語りました。
白石は驚愕しました。尾張家から将軍を招くとなると自分の地位もどうなるか分からない、そう思った白石は必死になって家宣を説得し、家継を推しました。しかし、それに対して家宣は言いました。
「天下のことに私的な事情を差し挟んではいけない。古来、幼君のときに天下が治まった試しがあるだろうか。家康公が御三家をつくったのも、こういうときのためだ」
しかし、結局は白石らの強硬な後押しによって、7代将軍には家継が就くことになります。家宣は、臨終の間際、枕元で泣く側近たちに向かってこう語ったといいます。
「泣くな、馬鹿者。人間が死ぬのは当たり前ではないか」
それが最期の言葉となりました。享年51歳でした。