1853年のペリー来航以後、幕府の重要課題は開国の可否と将軍継嗣問題でした。直弼は外国と戦うのは不可能で開国はやむを得ない主張し、老中の堀田正睦(まさよし)らに支持されていました。いっぽう、水戸藩の徳川斉昭は攘夷論をとなえて外様雄藩の大名に支持され、譜代大名らと対立するようになります。
両者の対立は将軍継嗣問題とからみ、いっそう激化しました。直弼を中心とする譜代大名は将軍徳川家定の跡継ぎとして紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)を推し、斉昭は雄藩の大名とともに一橋(徳川)慶喜を推していました。1858年初め、斉昭は慶喜の将軍継嗣を有利にするよう朝廷にはたらきかけ、あわせて条約の勅許を求める幕府の京都工作を妨害します。
このような情勢のもとで大老に就任した直弼は、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、慶福を将軍継嗣に決めると公表しました。さらに攘夷派の反発には徹底した武力弾圧で応じました。これが「安政の大獄」です。この弾圧によって反対派は一掃されますが、直弼自身も1860年3月、「桜田門外の変」で水戸・薩摩の浪士に暗殺されてしまいます。安政の大獄があまりに過激だったため、直弼の独裁に対する当然の報いであるという見方が強くあります。
しかし、直弼をたんなる冷酷非情な独裁者と決めつけてしまってよいものでしょうか。当時、直弼は国家存亡の緊急事態に直面していたわけです。中国では英仏連合軍が勝利し、次のターゲットが日本であるのは間違いありませんでした。外国艦隊に攻められては日本はひとたまりもない。あれこれ議論している暇はなかったのです。
ただちに条約を調印するか、あくまで勅許を待つか。厳しい選択を迫られた直弼は、悩みぬいた末に勅許なしでの条約調印を決断しました。それによって諸外国から武力侵攻のない状況をつくりだし、その間に日本の海軍力を充実させようと考えたのです。強い非難が一身に浴びせられるのは覚悟の上でした。このとき、直弼がもし決断を先延ばしにしていたら、国内はますます混乱し、中国のように日本も欧米列強の植民地にされる可能性がありました。
現実を直視し、日本全体のことを考えた井伊直弼。厳しい国際情勢のもとで国家の独立を守った彼は、最大級の“日本の恩人”といってもよいのではないでしょうか。