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ムッソリーニの処刑06

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:空腹と恐怖の日々 ナチ占領下の首都ローマには、ファシズム時代にもなかった重圧感が鉛のように重くのしかかっていた。ローマ占
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空腹と恐怖の日々
 
 ナチ占領下の首都ローマには、ファシズム時代にもなかった重圧感が鉛のように重くのしかかっていた。ローマ占領ドイツ軍主力は機甲師団と降下師団である。その鉄帽、迷彩をほどこした戦闘服は、ふくよかな文化の香り高いこの街々にはどうしてもそぐわない。それにもまして、彼らの口をついて出る荒々しいドイツ語の響きは、やさしくまろやかなイタリア語とは融け合わなかった。古代ローマの昔から、ゲルマン人はイタリアの土地を侵略し、略奪を繰り返してきた。文化的にも歴史的にも、そして人間的にも、イタリア人にとってドイツ人は「北の蛮族」でしかなかった。そのドイツ人がいま、イタリアに君臨している。ローマ市民にとって、それはどうにも耐えられない屈辱であった。
占領ドイツ軍は当然ながら、市内の主な建物を軒並み接収した。都心の緑濃いボルゲーゼ公園に面するイタリア大通りの豪奢な建物は、ケッセルリンクのイタリア占領ドイツ軍司令部が独占した。隣接のヴィットリオ・ヴェネト街の華麗なホテル・エクセルシォールは、メルツェル将軍のローマ占領司令部が入った。グランド・ホテルのほかアンバシアトーリ、クィリナーレなどの名門ホテルもドイツ軍将官の住居として接収された。
市民達ははじめ、ドイツ軍に冷い視線を向けながら鬱々とした日を送っていた。だがやがて、その存在を無視するかのようにふてぶてしく振舞うものや、「テスタ・ドゥーラ奴(め)」と軽蔑の言葉を浴びせるものも多くなった。これは直訳すると、「重くて動きのにぶい頭」という意味で、「石頭野郎」とか「馬鹿者」を言う。イタリアでは昔からドイツ人の蔑称であった。その言葉を公然と口にしはじめたのである。
ドイツ軍占領で、市民の日常生活がにわかに脅かされたからである。真っ先に現われたのが食糧不足であった。定住市民一人当りのパン配給量は一日百五十グラムと、それまでのほぼ半分近くに減った。肉、魚、野菜の供給は激減してしまった。ドイツ軍への供給が最優先されたからである。このため、テヴェレ川畔や町はずれのヤミ市で、食料品の相場は上がる一方であった。それでもヤミ市は繁昌し、人々はそれに頼った。庭で菜園を作る家も増えた。農村に買出しに出る家も多くなった。物々交換の主な品は家具、毛皮類、靴、乳母車、空瓶、衣服、書籍などであった。農家は現金もさることながら、こうした順位で品物を歓迎した。
年が明けて四四年、配給品さえ途絶えるようになった。ムッソリーニが君臨していた頃は皆、健康そうに適度に太っていた。それがドイツ軍に占領されてからというもの、ローマだけでなく各都市で、市民の健康は急速に損われ始めていた。痩せおとろえた人が目立つようになった。
一九八四年六月に発表されたある研究者の調査では、四四年から四五年当時、ローマ市民の摂取カロリーはドイツ軍占領前の三千カロリーから千五百カロリーへと半減した。また死亡率は四十年の二倍となった。乳幼児の蛋白質量は、一日なんと七・二グラムしかなかったという。当時の飢餓体験者の一人が「ドイツ人ってのは、人間を人間と思わずに、想像もできないことを平気でやる人種だ」と語ったのを想い出す。
食糧危機だけでなく、飲料水、電力の不足も逼迫していた。ローマ南郊アルバーノ水源地や水道管が連合軍の空爆で破壊された結果、町なかの噴水やテヴェレ川の水を使うローマ市民も多かった。電力はドイツ軍優先であった。月の明るい夜は、街灯でさえ消された通りもあった。一般アパートメントのエレヴェーターは、当然動かなかった。こうしてローマ市民は戒厳令下で夜間外出禁止を科せられ、いつもひもじく、暗い夜を過し続けていたのである。
 この夜間外出禁止は当初、夜九時から翌朝六時までであったが、その後、夜七時から、さらに四四年に入ると夕方五時へと繰り上がった。この事実はドイツ軍の市民への締めつけが段階的にすさまじくなったことを物語る。それは反ナチ・テロ防止のためであったが、それほど反ナチ活動が活発化してきた証拠でもあった。
ドイツ軍の規制と市民の反ナチ活動は、イタチごっこの観を呈し、市内の緊張は月が変るごとに日一日と高まっていた。市内には占領軍の布告が次から次へと貼り変えられていた。
「反ドイツ的行動に出るものには、極刑で臨む。テロを準備するもの、及びテロを行うものに対しては即時射殺、または公開絞首刑とする」
「反ドイツ・プロパガンダの印刷物の所持者、およびそれら印刷物の編集、印刷、配布に携ったものは銃殺刑とする」
こうした締めつけに対し、市民の反抗精神はかえってエスカレートするばかりであった。ローマを占領すると同時に、無粋なドイツ兵が街々の要所に単独ないし数人で歩哨さながら警備に当った。占領間もない十月に入ったある日、スペイン広場の一角を自転車に乗った男が、ドイツ兵とすれ違いざま、ナイフで一撃して逃走した。そのドイツ兵は追いかけようとして息絶えた。そうした事件がそれから数日間、市内で連発した。
ドイツ軍司令部はすぐさま、「二輪車禁止」の布告を発した。するとローマの自転車店では、二輪車を三輪車に改造する商売を始めた。市民はドイツ軍の前を、これ見よがしにその三輪車を乗り回したものだった。またドイツ軍は占領軍使用のため、市民の自動車を徴発した。被害者の一人、女優のアンナ・マニャーニは怒って、農家の使う大八車を持ち出し、ドイツ兵に「そら、どいた、どいた!」と怒鳴りながらヴィア・デル・コルソなどの目抜き通りを走ったのであった。
こうした路上でのテロやいやがらせは日常茶飯事であった。ドイツ兵やファシストに対するテロリストは、捕まり次第、その場で射殺された。テロリストでなくても、ドイツ兵にちょっとでも抵抗する市民は男女を問わず銃弾に倒された。テレザ・グラーチェという三十八歳の主婦は、夫が無理矢理ドイツ軍の労役にかり出されていくのを追いかけたところ、ドイツ兵にあっさり射殺された。そのドイツ兵と一緒にいたファシストは数日後、何者かに殺された。愛国行動隊の手にかかったのである。
ローマの愛国行動隊隊長は、父の自由党代議士ジォヴァンニ・アメンドラをファシストによって殺されたジォルジォ・アメンドラであった。地下に潜行した共産党員である。ローマの愛国行動隊のメンバーは当初は数十人しかいなかったが、四四年六月のローマ解放時には約八千人にまでふくれ上がっていた。数人の小グループで編成され、ドイツ兵やファシストを襲撃、殺傷するのが目的である。時にはドイツ軍移動などの情報収集、ドイツ軍の戦略物資、武器弾薬を盗み出すこともあった。教育程度の高い若い男女が隊員で、半数以上が大学生であった。特に女性の役割は大きく、持参する鞄の底には、武器や反ナチ・ファシストのビラや印刷物をしのばせていた。
次のようなグループもいた。フェルナンド・ヴィタリアーノ、マリーサ・ムッソという男女二人組の行動隊は、ドイツ軍とファシスト警察の首脳らを一挙に殺害する計画を企てた。ムッソリーニの長男ヴィットリオがローマに移り住んでいたため、まず彼を殺害し、その葬儀にナチ・ファシスト首脳が参列する際に爆殺しようという魂胆であった。
二人はまずヴィットリオの朝から晩までの行動を詳細に調べ上げた。護衛のファシストがいないのは、朝七時にきまって彼がガレージから自家用車を出す時と分った。この時に殺害の機会があるとして、二人は綿密な計画を練り上げた。
二人は出勤とみせかけて毎朝、ガレージ前を通り、ヴィットリオに顔を見せ、不穏分子ではないと安心させたうえである日、短剣で刺殺するということにした。いよいよ明日実行という前夜、ヴィットリオ家の隣家に泥棒が入り、周辺に警官や私服が集っていた。通行人は物蔭の私服から突然尋問され、持物を調べられた。不運にもフェルナンドとマリーサの二人はこの尋問にひっかかり逮捕され、待っていたのは政治犯の刑務所であった。
 ローマのパルティザン達にとって、戦いは孤独であった。いつも孤立して戦うしかなかった。全市をドイツ軍に包囲され、外から武器は入って来なかった。武器を調達するにはドイツ軍から奪うしか手段はなかった。しかし愛国行動隊一人ひとりの命がけの闘いで、武器弾薬は着実に増えていた。もちろんその蔭で犠牲者が出ていた。しかし誰もひるまなかった。後ほどラセッラ街での事件の主要人物としてふれる、愛国行動隊の女性隊員の一人カルラ・カッポーニは「われわれの愛国心というものは、レジステンツァ(抵抗)にのみ見出される」と書き遺している。
確かにローマでのパルティザン活動は、物理的には孤立した戦いであった。しかし間もなく行動隊の面々は決して孤立してはいないことを知る。それはローマのパルティザンのみならず全イタリア人を激励し、またローマとミラノ、ローマとヴェネツィア、ローマとフィレンツェなどを結ぶ秘密連絡を代行してくれるロンドンのBBC放送、モスクワ放送の恩恵を思い知らされたからであった。
これら短波放送は、夜にはきまってイタリア語放送を流し、国際情勢全般から大戦の戦況を詳細に伝えた。ドイツに都合のいいニュースだけを流されている占領下イタリアでは唯一つの世界に開けた「窓」であった。ロンドン、ジュネーヴ、アルジェなどからの情報をまとめて、イタリアのパルティザンを支援し、鼓舞する番組が組まれていた。
ローマ市民は口づてにこの放送の存在を知って、屋根裏やベッドの下に受信機を置き、毛布で覆いながら耳を押しつけるようにして聴いた。この受信機をドイツ兵やファシストに見つけられようものなら、逮捕は免れなかった。それをも覚悟して市民の多くは受信機を密かに取りつけたのであった。
ローマ時間の夜九時、十時、十一時がBBCのイタリア向け短波放送時間であった。放送の第一声として「まず本日のメッセージを伝えます」のあと「黄色いバラを三つに」とか「明日朝九時のレティツィア嬢は美しい」などと謎めいた言葉が流れる。一般の人々にはチンプンカンプンであったが、実はパルティザン同志の指示や連絡だったのである。これを聴いて市民達は、同胞の誰かが反ナチ・ファシストのために働いているのだなと、心強く受けとめていた。
BBCのこのニュースキャスターは、「コロネッロ・ブオーナセーラ」と名乗っていた。「今晩は大佐」という意味である。毎夜、「ブオーナセーラ(今晩は)」と挨拶するのでそうした異名となった。イタリアでは隠れた人気キャスターであった。戦後に分ったことだが、そのキャスターはナポリ生れのイタリア系イギリス人コロネル・スティーヴンスという人物であった。
一方、モスクワ放送からはエルコリ・エルコレと名乗る人物から、イタリア語放送が届いていた。エルコレとはギリシャ神話の怪力男ヘラクレスのことである。そのエルコレを名乗った男は、後のイタリア共産党書記長となるパルミーロ・トリアッティであった。
 ではいったい、当時、誰がこのドイツ軍支配下のローマから外界と接触を保っていたのだろうか——。
それはローマの元参謀本部陸軍大佐モンテゼーモロという人物であった。あのイタリア休戦を敢行したジュゼッペ・カステッラーノ准将の直属の部下である。ローマの名門貴族の出で、ジュゼッペ・コルデーロ・ランツァ・ディ・モンテゼーモロという由緒ある姓名の持ち主である。土木工学の学位を持つ工兵隊将校で、第一次大戦ではアルプス連隊に所属していた。第二次大戦では首都軍司令部市政局長を務めたこともある。
彼はローマがドイツ軍に占領されるとすぐ地下に潜行し、「軍事戦線」という反ナチ抵抗組織を編成、無線機器を駆使してブリンディシのバドリオ政権と連絡、また連合軍最高司令部とも接触し、それを仲介にイタリア各地のパルティザン部隊と戦術調整などを行っていたのであった。謎のようなBBC放送のメッセージは、このモンテゼーモロ大佐との交信や「軍事戦線」組織との連絡網であった。
彼は地下に潜ってからは、技師を職業とするジャコモ・カタラット=マルティーニという偽名を使っていた。無私無欲の性格で、信仰心に篤かった。そのためかドイツ軍の報復を招く愛国行動隊方式のテロ闘争には批判的であった。正々堂々ドイツ軍と相まみえる方式を採り、それによってのみ、最終的にドイツ軍をイタリアから放逐することができるとして全土でパルティザンを増やすことに心血を注いでいたのである。それは着々と実を結んでいた。
ヴァチカンもモンテゼーモロ大佐を陰に陽に支援した。ヴァチカン所属の建物内で、モンテゼーモロと国民解放委員会やパルティザン達との秘密会議も度々行われたという。しかしその華々しい活躍も半年足らずで、四四年一月、市内のドメニコ派僧院付属研究所が「武器隠匿」容疑でファシストに急襲された際に、彼は他の反ナチ・ファシストと共に逮捕され、ドイツ軍に虐殺されることになる。この子細については後述する。だが彼の作り上げた「軍事戦線」網は中部イタリアだけで四四年夏には五十ほどの拠点を持つことになる。
 ここでドイツ軍に対する当時のヴァチカンの態度について概略触れておく。ヴァチカンはローマ市内にあっても、れっきとした独立国であり、ローマ占領ドイツ軍を領土内には一歩も入れなかった。ドイツ軍側は再三、警備隊をサン・ピエトロ広場にも配置したいと申し入れたが、ヴァチカン側の拒否にあった。法王庁国務次官ドメニコ・タルディーニ枢機卿はドイツ大使エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーとしばしば会見、ドイツ軍がイタリア人を大量に逮捕し、迫害していること、また食糧不足についても厳重抗議を行っていた。
こうした動きに見られるように、全般的にヴァチカンとしてはドイツ軍政に批判的であった。一、二の例を挙げてみる。
ローマ終着駅にほど近いチェルニア街の修道院に住むピエトロ・バルビエーリ大司教は自分の書斎に常時十幾つもの寝台を用意しておき、パルティザン達に提供したほか、国民解放委員会の秘密会議の場所に使わせた。デ・ガスペリ、ネンニ、ボノミらの反ナチ・ファシストそれに後日パルティザン全軍の指揮官となるラファエレ・カドルナ将軍らはこの書斎の常連であった。もしドイツ軍に見付かれば、大司教自身も処刑されることは明白だったが、最後まで発見されずに済んだ。
逆に悲惨な最期を遂げた神父の一人に、ピエトロ・パパガッロ師がいる。サンタ・マリア・マジォーレ大聖堂の司祭であった。住居は大聖堂前のウルバーナ街にあった。ドイツ軍の手から逃れさせるユダヤ人達に本物と区別もつかない精巧なニセの身分証明書を発行し、またパルティザン達を匿(かく)まい、同じように追及を逃れるための身分証明書やその他の証明書を手渡して助けた。
しかしゲシュタポの回し者で、助けを求めるふりして接近してきたマルティーニ伯爵夫人と称する女性の密告により逮捕された。ゲシュタポは神父の住居に張り込み、訪れるパルティザンを相ついで逮捕したのであった。後日パパガッロ神父は銃殺されたが、この神父のことは、ロベルト・ロッセリーニ監督の「無防備都市」にも詳細に描かれている。
ヴァチカンがドイツ大使に厳重抗議したように、ドイツ軍はローマ市民全体を敵視しているかのごとく仮借ない取締り、逮捕、拷問、処刑で臨んでいた。ゲシュタポ隊長カプラーとローマ警察署長ピエトロ・カルーソは、緊密な連携で無数の非人道的な蛮行を逮捕者に加えた。
サン・ジォヴァンニ・ラテラーノ大聖堂に近いタッソー街百四十五番地「ドイツ文化協会」の建物がカプラーの事務所で、この建物は現在は別名「惨劇の家」として知られている。中世の詩人タルクワート・タッソーの名を冠した美しい街並みにそぐわず、その建物は血に飢えた冷血鬼どもの蛮行の館であった。重要なパルティザンはいずれも逮捕後、この四階建の建物に連行された。前記モンテゼーモロ、パパガッロ神父もここに拘禁された。
モンテゼーモロが捕まる二日前の一月二十三日には、その一年半前の四三年七月二十五日にムッソリーニ逮捕を執行した国防省警察のジォヴァンニ・フリニャーニ大尉も逮捕されて、同様に拷問を受けていた。常時、十数人ほどがこの建物内に収容されており、尋問、拷問のあとは市内西部にあるブラヴェッタ城塞跡の土手に引き立てられて銃殺される手筈となっていた。
瞼を引きちぎられ、こめかみをヤットコで締め付けられるなどの拷問にもかかわらず、ほとんどの逮捕者は口を割らずに殺されることを選んだ。現在は「ローマ抵抗博物館」となっているこの旧ドイツ文化協会を訪れた私は、館内を歩くうち、壁に記した幾つもの爪で彫った言葉を見て胸が痛んだ。
「イタリア万歳!」や「裏切るよりは、いかにつらくとも死んだ方がましだ」というのもある。陸軍の師団長で反ナチのシモーネ・シモーニ将軍は、十字架とともに「私は拷問を受け、耐えている。誇りをもって、私の思いは祖国に、そして家族に」と彫り遺した。市内の小学校ではこの博物館見学が学習課程の一つになっている。
このほか私設の「共和国警察特別局」はピエトロ・コッホ組など五班に分れ、コッホが最も残忍だったとされている。コッホ組の“拷問事務所”は都心部のロマーニャ街のもともとは下宿屋だった家を使っていた。コッホらは四四年六月、ローマが解放されるとフィレンツェに逃れ、そこでも“拷問事務所”を開いたが、最後にミラノでパルティザンにより銃殺された。
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