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ムッソリーニの処刑09

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:パルティザンの論理 私は幾度もこの「アルデアティーネ」を訪れたが、三十年四十年経っても、花束をかかえた人が絶えない。聞い
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パルティザンの論理
 
 私は幾度もこの「アルデアティーネ」を訪れたが、三十年四十年経っても、花束をかかえた人が絶えない。聞いてみると犠牲者の身内であったり、まったく無関係の人もいたりした。菊の花を手に女の子を連れたある婦人は、「別に関係者ではありませんが、あってはならないことを子供に教えようと思って……」と私に語った。またある時、祖父が犠牲者だという青年は、私が日本人と知って、別れ際に、「ヒロシマによろしく」という言葉を残して去った。私は思わず「えっ」と思ったまましばらく言葉が出なかった。やっとのみこめたのは、「このアルデアティーネをヒロシマと同格に見据えているのだな」ということであった。つまり戦争というものの残虐性、非人道性の告発のシンボルとしてこのアルデアティーネを見るイタリア人がいるということを知らされたのである。
 私はラセッラ事件とそれに続くアルデアティーネの惨劇を知ってからというもの、この二つの事件がパルティザン活動というものの本質と深く関っていると見て、いつまでもこだわりを捨て切れなかった。
ローマのナチ支配は四三年九月八日の休戦直後から翌年六月四日の連合軍到着まで二百六十八日続くわけだが、その間、ローマでの反ナチ・ファシスト活動は絶えることなく、ラセッラ事件以降も頻発した。それどころか、ローマ以北のイタリア各地で凄絶さにおいてラセッラ事件やアルデアティーネに勝るともおとらぬ事件が四五年春まで続く。そして頂点としてのムッソリーニ処刑を迎えるのである。
すなわち、アルデアティーネ大虐殺のようなドイツ軍による報復を受けてもひるむことなく、イタリア国民はさらに反ナチ・ファシズム活動を精力的に展開していった。そこにわれわれは抵抗運動、パルティザン活動というものの真髄を見ることができると思う。
現代政治学では、抵抗運動とは平たく言えば、内外の権力による不当な弾圧に対して個人ないしは集団が人間の自由、正義、独立などの実現のために闘争することと規定できよう。その闘争形式はまずテロであり、ゲリラであり、さらに大きくなればパルティザン戦闘となる。
第二次大戦中、イタリアではまさにこの定義そのままに、自然発生的に抵抗運動が拡大していったのである。その弾圧と抵抗の図式の中で残忍さと憎悪は月日とともに相互にエスカレートしていく。パルティザン達は捕まれば、ナチ・ファシストによる処刑は免れなかった。そればかりか無辜(むこ)の民衆をも巻き込み、それらへの残虐な仕打ち、報復さえも予見された。にもかかわらず、パルティザン達は多くの試練に耐え、市民の支持によってナチ・ファシストからのイタリア解放のため、最後の勝利まで戦いぬいたのであった。なぜそうまでして、イタリア・パルティザン達は戦ったのか。
次に理屈などではない彼らの魂の声を聞いてみよう。以下は『イタリア抵抗運動の遺書』(冨山房刊、P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編/河島英昭、他訳)の中からごく一部を抜粋引用させていただいたものである。
 ジャーコモ・ウリーヴィ パルマ大学法学部学生。国民解放委員会の連絡役。徴兵忌避工作にも当る。再三逮捕されたが脱走、三度目の逮捕後、四四年十一月十日銃殺。十九歳。
「あまりにも浅薄な考え方をして、ぼくたち自身を忘れてはならない。いかなる美辞麗句にも惑わされず、確認しよう、国家とは実はぼくたち自身であり、ぼくたちの仕事、ぼくたちの世界であるということ、国家の災難はすなわちぼくたちの災難だということを。現にぼくたちは、ぼくたちの国が陥ったはなはだしい悲惨のために苦しんでいるではないか。そのことを、もしぼくたちが肝に銘じていたならば、こんな事態になっただろうか?」(P・390)古賀弘人訳
 フランコ・バルビス 参謀本部付砲兵大尉。北アフリカ戦線で武勲をたてた後、イタリア休戦でパルティザンに。ピエモンテ地方軍事委員会の組織化と連絡に当り、秘密の会合中に逮捕。四四年四月五日、他の七人とともに銃殺。三十二歳。
「いつも誠意と敬意をもって〈国〉のために働こうと願ってきたことを確認し、限りなく静かな心を抱き、胸を張って銃殺隊の前に進み出よう。〈自由イタリア万歳〉というわたしの叫びが死をもたらす銃声を圧してかき消してしまうよう願っている」(P・45)川名公平訳
 ジョルダーノ・カヴェストロ 学生。戦争中の四〇年、反ファシズム宣伝パンフレットを発行。四三年九月以降パルティザンに。四四年四月、パルマ県で逮捕。人質として留置され、五月四日、兵士殺害の報復として他の四名とともに銃殺。十八歳。
「ぼくたちはあらゆる悪の終りに立ち会っているのだ。いまは、いわば、巨大な怪物が最後のあがきでなるべく多くの生贄(いけにえ)をつくろうとしているときだ。
もしきみたちが生きながらえたならば、このように美しいイタリアを、このように暖かい太陽に恵まれ、このように善良な母親たちと愛らしい少女たちのいるイタリアを、いまの悲惨から立て直すことが、諸君の仕事なのだ。ぼくたちの屍の上に〈自由〉という大きな篝(かが)り火が燃えあがるだろう」(P・112)倉繁昌子訳
 ボーリス・ブラダック・パウデル 医学生。トリノ県のガリバルディ第四旅団主計係。戦闘中に捕まり脱走したが、密告で再逮捕。戦争終了一ヵ月前の四五年三月二十六日、同僚二人とともに銃殺。二十四歳。
「戦友諸君へ。今日、ぼくの生涯は閉じる。最後のこの時に、ぼくの感謝の念が諸君に届いてくれるように。諸君はぼくの真の、立派な同志であった。ただ一つ悔しいことがある。諸君がいまや〈勝利〉を目前にし、〈平和〉が、少なくとも長い闘いと苦しみの末に誰しもが求める平穏さが、全世界に響き渡ろうというときになって、諸君と別れなければならないとは。みなに兄弟としての抱擁を。イタリア万歳」(P・89)望月紀子訳
 以上は約二百点の遺書のほんの一部であり、長文のものからは申し訳ないが意とするところを損わない範囲でエッセンスだけを抽出した。
「国家とは実はぼくたち自身」また「自由イタリア」というような素晴らしい言葉を残して銃殺隊の前に胸を差し出したこれらパルティザン達は、イタリアのどこにもいた自由の戦士達であった。彼らは「そのためには死んでもよい」という「真の大義」を自ら見出して、銃殺隊の前に立ったのである。
言葉の一つひとつは、個々の魂の苦しみの告白であると同時に、個を超越した反ナチ・ファシズムという大きな共通の理念に燃えていることを、われわれはその文字や行間に見ることができる。そして彼らは、戦うことによってのみ、ナチ・ファシズムからのイタリアの解放のあることを固く信じて死んでいった。その胸中を思うと、言葉もない。
 イタリア・パルティザンの場合、中には裏切りや密告によって捕った者もいた。また激しい拷問に耐え切れず、心ならずも仲間を売った者もいた。その一方でパルティザンに必ずしも味方しない市民も少くなかった。
早い話、ラセッラ事件を起したベンティヴェンガはローマ解放後、「彼のせいで犠牲になった」と、アルデアティーネの犠牲者の一部遺族から訴えられたのである。そのため四四年六月二十三日、彼は刑務所に収容され、七月十四日ローマ地裁で「過剰防衛で十八ヵ月の懲役」の判決を受けた。これには多くの市民が再審を請求、八月十九日ローマ高裁は「無罪」とした。
釈放された彼は以来、黙して語らずであったが、ラセッラ事件四十周年の一九八三年春、「ACHTUNG BANDITEN(暗殺者どもを警戒せよ)」という当時のドイツ軍の合言葉をタイトルにした一書を著わした。彼は恋人だった同志のカルラと結婚し、ローマで医療関係の仕事をしているが、その著書の中で次のように心境を述べている。
「あの事件の結果、関係のない三百人以上もの人々を巻き込んで、ナチの犠牲にしてしまったことは弁解の余地もない。心底から申し訳ないと思っている。
しかしナチ親衛隊を襲撃したことは、決して間違いではなかったと今でも確信している。ナチの暴虐に対しては屈服したら終りであり、われわれの負けになる。暴虐を容認してしまうからである。戦争を早く終らせるため、あらゆる機会をとらえて戦いを挑み、それによって最後には勝たねばならなかった。それはつらく悲しいことだった。でもそれはパルティザンの宿命だったと思っている」
 これは確かにパルティザンの論理というものであろう。多くのパルティザンもそのように確信して、決死の抵抗運動に献身したのである。国民解放委員会議長のボノミも、「解放のために死のう」とリーダーシップをとったのであった。
しかし一般市民を巻きぞえにしたり、同じイタリア人のファシストに対し憎悪の銃弾を放ったことについて、生き残りのファシスト達の憎悪がいまなお消えていないのも事実である。「やり過ぎ」「過剰反応」といった批判も残っている。
戦争中、その対決が最も鋭かった地域の一つエミリア・ロマーニャ州では、一九九〇年九月レッジォ・エミーリア市で元パルティザンと元ファシスト党員数百人があわや大乱闘を引き起すまでの緊張が高まった。すでに六、七十歳の高齢者となっていたが、元パルティザン数十人が標識の赤いマフラーをして中心街マルティリ広場に集ったところ、約五百人の元ファシストが二百メートル離れたバッティスタ広場に集結し、党歌「ジォヴィネッツァ(青春)」を合唱した。
その声を聞いた元パルティザン達は、隊員が当時よく歌った「BELLA CIAO(可愛い子)」の大合唱で応じた。警官隊が間に入って辛うじて衝突は避けられたものの、このように戦後四十五年を経てもなお深い対決の傷跡をのぞかせる時がある。それは個々の人間として、安易に妥協は許されない精神の最も根源的な部分に関る戦いだったからであろう。
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