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ムッソリーニの処刑08

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:アルデアティーネの大虐殺 ラセッラ街の現場から、ローマ占領司令部のホテル・エクセルシォールは五百メートル足らず。司令官メ
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アルデアティーネの大虐殺
 
 ラセッラ街の現場から、ローマ占領司令部のホテル・エクセルシォールは五百メートル足らず。司令官メルツェルは折柄、ローマのファシスト党幹部らと昼食中であった。一報を受けるや現場に急行したメルツェルは、飲み過ぎたブドウ酒も手伝って、興奮のあまり顔を真赤にして震えた。
「この地区の住民全員を集めて処刑だ! 住居はすべて爆破する!」
怒鳴った司令官は、親衛隊員達の変り果てた多くの遺体を見て、いまにも失神せんばかりであった。このため同行した親衛隊大佐ユージン・ドルマンが現場指揮をとった。ホテル・エクセルシォールからは、昼食を共にしていたドイツ領事アイテル・マルトハウゼン、イタリア内務次官ブッファリーニ=グイディ、ローマ警察署長カルーソらも駆けつけた。ゲシュタポ隊長カプラーも姿を見せた。
死傷者は全部で百人以上に上り、累々と横たわる遺体の傍で重傷者はうめき、のたうち回っていた。その惨状をひと目見るなり、誰もがただ呆然とするばかりであった。
重軽傷者が病院に運ばれている間に、生き残り親衛隊員によってラセッラ街の住民が続々、バルベリーニ宮殿前に引き立てられた。
イタリア占領軍司令官ケッセルリンクはたまたま前線視察でローマに不在だったが、同司令官名での至急連絡にヒットラーは折返し「ドイツ兵一人に対しイタリア人五十人を処刑せよ。ラセッラ街は全域爆破」と指令して来た。しかも、二十四時間以内に! と厳命したのである。これにはさすがの親衛隊も驚いた。処刑など朝飯前のゲシュタポも「一人対五十人とは!」と絶句した。三十三人が死亡したから、処刑者は千六百五十人になる。「どこからそんなに人質を調達できるか?」をめぐり、ドルマン、カプラーら親衛隊首脳はようやく気を取り戻したメルツェルと協議した。ロシア戦線での場合は一人対十人であったことから、こんどの場合も十人という数字を出した。夜七時、ケッセルリンクが前線から戻ったため、その旨を具申、総統の了承をとることになった。
ケッセルリンクはまず大本営の同僚と電話で打ち合わせた後、ヒットラーに「一人対十人」と恐る恐る申請を行うという気の遣いようであった。夜十時になってヒットラーからその旨了承の返事が来た。その実行はケッセルリンクからメルツェルを経てカプラーに下命された。
 ヘルベルト・カプラー。当時三十七歳でゲシュタポの幹部。親衛隊中佐であった。イタリア派遣ドイツ軍とともにローマ入りし、サラリア通りの庭付きの家に住み、バラ作りを楽しむ独身男であった。
四三年九月、イタリア休戦と同時にドイツ軍がイタリア占領軍に早変りすると、ローマ地区のゲシュタポ最高責任者に就任する。そのとたんローマ在住のユダヤ人から金(きん)五十キロを徴収、それを横領したと言われている。また市内のユダヤ教会や付近のユダヤ人商店街を襲撃し、さらに数千人のユダヤ人やユダヤ系イタリア人をドイツの強制収容所に送り込んだことで、ローマでは“恐れられた知名人”となった。
ラセッラ街事件の発生で三百三十人の処刑を行わなければならなくなったが、彼が考えた処刑対象者はタッソー街のドイツ文化協会にゲシュタポが拘禁している反ナチ・ファシスト、刑務所に収容されている政治犯や死刑囚などであった。それでも三百三十人には大幅不足のため、ローマ警察署長カルーソや、その下請け私設「警察特別局」のピエトロ・コッホらにまで協力を依頼した。
「二十四時間以内」という総統の命令もあり、処刑者リスト作成はすさまじい混乱の中、夜を徹しておおわらわで進められた。政治犯、反ナチ・ファシスト容疑者は一人残らずリストに組み入れられた。不足分はユダヤ人があてがわれた。恐るべき荒っぽい作業であった。
タッソー街に拘禁されている反ナチ・ファシスト達は、その晩も拷問や尋問を受けていた。モンテゼーモロは両眼が黒く腫れ上がり、唇は切れて血まみれになっていた。大佐は連日の拷問であごの骨を砕かれ、そのために発熱していたが、それでも平静を保ち、威厳を失わなかったという。あのパパガッロ神父もその頃は、一日一度の粗末なスープの食事さえも口に入れず、ただひたすら拷問を受ける人達のために祈り続けていたとのことである。
一睡も出来なかったカプラーはこの夜、能率的に処刑を完了する方法も研究した。戦後、一九四八年から五三年にかけてのこのカプラーに対する裁判で、彼が供述したところによれば「短時間で能率的に処理するため、部下を五人一組に編成し、交替でこの一組がそれぞれ一発で五人を処刑する方法を考えた。一発で処刑するには後頭部から脳天に銃弾が貫通すればいいのだ。機械のように処刑は進行した」という。書くのも憚(はばか)られるほど冷酷で残虐な発想である。
処刑はゲシュタポ隊員がローマ南郊の「アレナリオ・アルデアティーネ(アルデアティーネの砂穴)」という無数の洞窟の中で実施することにカプラーは決めていた。かつて火山灰に似た山砂が採掘された洞窟である。ここはカラカラ浴場跡からサン・セバスティアーノ門を出て、かの「ドミネ・クオ・ヴァディス」教会を過ぎ、観光名所サン・カリストとサン・セバスティアーノの両カタコンベ(初期キリスト教時代の地下墓地)のすぐ裏手にある。
アルデアティーネ洞穴を選んだ理由は、極秘裏に行う必要からだったという。人目につくブラヴェッタ刑場などでは、反ナチ・ファシストからの妨害や襲撃も予想されたからであった。
 一夜明けたが、まだ三百三十人もの処刑者リスト作成は手間取っていた。ローマ南方アンツィオに上陸した連合軍とドイツ軍の攻防戦の砲声が遠雷のように響いてくる。だが連合軍はまだローマから四十キロも先である。この物理的距離のおかげで、ゲシュタポには処刑を遂行する時間的余裕があった。処刑される側にとっては、悲運以外の何ものでもなかった。
昼過ぎになってやっと全員男性三百三十人のリストが埋った。あとはリストの処刑者をアルデアティーネに輸送するだけである。輸送にはその頃は必要ではなくなっていた食肉運搬車が使われることになった。アルデアティーネの周辺は、親衛隊が厳重に警戒した。
タッソー街のドイツ文化協会に拘禁されている者はほぼ全員が名前を呼ばれ、運搬車に乗せられた。レジナ・コエリ刑務所へは親衛隊将校ツーンがリストを持って引き取りに向った。ここでは五十人がリストに載っていた。このレジナ・コエリ刑務所は、都心から離れたテヴェレ川の対岸にあり、処刑場からは最も遠い地点になる。このためツーンは処刑者の集合を急がせた。リストの名前を呼びあげて独房や集合房から呼び出し廊下に立たせた。偶然近くにいた者も行き当りばったりで並ばせられた。釈放されるのでは……と思い、名前を呼ばれないのに出て来た者もいた。こうして五十人のはずが五十五人になっていた。ツーンにすれば、いまさら誰が呼ばれずに並んだのかを調べ直すゆとりもなかった。五十五人はこうして食肉運搬車に積み込まれて、急ぎアルデアティーネに運ばれた。
そこでは恐ろしい時間が待っていた。集められた処刑者は一人ずつ後手に縛られた。その時になってはじめて、集められた人々はここで何が行われようとするかを知ったのである。やがて五人ずつの一団が次から次へと洞窟の中に連行されて処刑された。一つの洞窟が一杯になると、別の洞窟で同じように処刑が行われた。全員の銃殺が終ったのは、二十四日夜八時過ぎであった。親衛隊はそれら洞窟の入口を爆破して塞いだ。
ところがこの処刑を目撃していた一人の農夫がいたのである。この人はニコラ・ダンニバレといい、洞窟からちょうど死角に当るところにいた。そのため警戒の親衛隊からは気付かれなかったのである。続々と到着する車のきしみに、何事が起ったのかと約八十メートルの距離から恐る恐る見て驚愕した。大勢の人が縛られて洞窟に連れ込まれると、にぶい銃声が絶え間なく続いたのだ。この農夫は血の気が引いた。それから四十日後、ローマに連合軍が到着すると、この農夫は黙ってはいられず、見たことを直ちに報告した。これが事件発覚の発端となったのである。
ドイツ側は入口をふさいで証拠湮滅をはかったのだが、それは徒労に終った。処刑から二ヵ月後の六月にローマが解放された後、この農夫の届出で事件が明るみに出て、これらの洞窟の発掘作業が開始された。遺体はそれぞれ一人ひとり、丁重に石棺におさめられた。ローマの法医学者八人(うち女性一人)によって、リストに基づく身元確認作業も行われたが、十二人は不明のまま残った。
こうしてこの大量処刑はローマ市はもちろん外国にまで伝えられていった。このため戦後、最高責任者カプラーの裁判が四八年から五年間、ローマの軍事法廷で開かれ、カプラーや処刑に加わった親衛隊員の口々から残酷非道な処刑の詳細が判明したのである。証人に立った幾人かの親衛隊員は、「あの時のことは悪夢のように今もって自分を苦しめている。すべてを告白したい」と、進んで証言台に立った。
その裁判記録によって、三百三十人を処刑すべきところを三百三十五人が処刑されたことも明白になった。カプラーはヒットラーの命令による人数より五人多く処刑したことで「終身刑」の判決を受けることになったのである。
それにしても、裁判記録によると処刑の状況は凄絶を極めた。法廷では傍聴人の誰もが胸をしめつけられ、中にはすすり泣く者、聞くに耐えず退廷する者もあった。その痛ましい記録を筆にするのは忍び難いところだが、敢えてその一部を次に留めておきたい。その冷酷ぶりがまさにナチズムそのものと言ってよいからである。
 ——洞窟の前に集められた三百三十五人を、親衛隊のカプラー以下七十六人が一人ひとり縄で後手に縛った。処刑されると知って、人々は泣き叫び、あるいは怒り、地面に伏して抵抗した。最高齢者は七十五歳、一番若い者は十四歳の少年であった。
自分も殺されるパパガッロ神父が「皆さん、神に祈りましょう」と、涙を流しながら幾度も呼びかけた。すでに第一陣の五人は洞窟に引き立てられていった。洞窟内ではその五人のうしろに一人ずつの親衛隊員が付き、ひざまずかされた五人のそれぞれの後頭部に拳銃をあてがい、「頭を下げろ!」と命令し、脳天に銃弾が入るような角度で発射した。それはカプラーが指示した通りの方法であった。年少の親衛隊員がまごついていると、カプラーが「こうやるのだ」と言って模範を示した。
次々と機械的に作業は進んだ。隊員も次々に交替しては、時間のロスもなく進行した。死体の山ができた。次の人達はその上にひざまずかされた。山はどんどん高くなった。その山に登り切れなくなると、別の洞窟に移った。
洞窟の前に待つ人の中には、恐れおののき、震える人もいた。中には「イタリア万歳!」と絶叫する人も多かった。十四歳の少年が引き立てられて行く時は、神父が少年に頬ずりして抱きしめた。神父は声をつまらせながら泣いていた。ほかの人達も泣きながら見送った。
処刑が半分も済まないうち、カプラーは親衛隊員全員にコニャックをふるまった。「疲れたろう。これで元気を出してまた続けろ!」と言った。終了後、隊員達は進んでコニャックをラッパ飲みした。中には泥酔する者も出た。カプラーは、「御苦労だった。もっと飲め! これはすべて総統の命令でやったことだ。法に則してやったのだ」と訓示した。
処刑された者は、自動拳銃の一撃で即死した。ほの暗い蝋燭の光の中にうず高く積まれて行く遺体の山々——。
 処刑を待つ人達の恐怖はいったいいかばかりだったろうか。十四歳の少年までも処刑するとは!
その夜、カプラーは本国の大本営に「処刑完了」と報告した。同時にローマ占領司令部は、次の発表を行った。
「バドリオ政府の反ナチ・ファシスト一味がラセッラ街でドイツ軍に対し暴虐無類の事件を起した。ドイツ軍はわが方の死者一人に対して共産主義者十人を処刑するよう命令を受け、これは実施された」
 戦後、これらの洞窟は「LE FOSSE ARDEATINE(アルデアティーネの洞窟)」と命名され、ローマの建築家三人、それに彫刻家三人によって「ナチ・ファシズム糾弾の霊場」としての形がととのえられた。
門を入ると左側に、両手を縛られた三人の男性が遠くを眺めながら何かを訴えるように叫んでいる大理石の像がある。犠牲者の悲痛な想いを表現した姿である。さらに進むと天井の低い地下墓地があり、そこに三百三十五人の石棺がズラリと並んでいる。天井が低いから何か重苦しい圧迫感を感じ、死者の苦しみが胸に迫る。棺は御影石でできており、ふたの上には未確認の十二の棺を除き、氏名と顔写真が彫り込められている。
祀られている犠牲者は軍人六十八人(うち高級将校十二人)、外交官一人、ジャーナリスト、弁護士、大学教授など自由業三十三人、工員四十七人、商業七十一人などが主で、ほかに学生六人、司祭一人(パパガッロ神父)などもいる。これらのうち六十七人が反ナチ・ファシストのパルティザンで、残虐な拷問を受けたうえ処刑されたのである。また全員のうち七十人がユダヤ系であった。十四歳の少年もユダヤ人家族の一員であった。
この霊場の一角には、小さな記念館があり、処刑に使われた自動拳銃、弾丸、親衛隊の帽子、制服、またカプラーの所持品、指令書、さらには発掘作業中の写真、犠牲者の持物などが展示されており、見るものの涙をさそわずにはおかない。カプラー裁判の記録や犠牲者名簿などの資料も販売されている。
このアルデアティーネの洞窟を、イタリアの大統領、首相らはもちろん、これまで西ドイツの大統領、またローマ法王ほか諸外国の首脳ら多数が参拝している。
 これも戦後のことになるが、事件当時のドイツ軍首脳は、軍事法廷で戦争犯罪人として裁判を受けた。イタリア占領軍司令官ケッセルリンクは一九四七年五月、ヴェネツィアの連合軍軍事法廷で「銃殺刑」の判決を言い渡されたが後に「終身刑」に減刑され、さらに一九五二年十月には「釈放」という処置がとられた。東西冷戦の結果であった。
しかしゲシュタポのカプラーの場合は、そうはいかなかった。一九四八年七月からローマのイタリア軍事法廷でアルデアティーネ大虐殺の責任者として裁かれ、一九五三年十二月十九日イタリア最高刑の「終身刑」の判決を受けた。以来ローマとナポリの中間にあるガエタの軍刑務所に服役していた。
ところが一九七六年、カプラーが胃癌に侵されていることが判明し、ローマのチェリオ陸軍病院に移された。本人は「故国で死にたい」と嘆願し、軍事法廷はそれを認めて「釈放」を決めた。しかしイタリア世論が釈放決定に猛反対し、高等軍事法廷が「釈放取消し」とした。
アルデアティーネ大虐殺事件の当時三十七歳だったカプラーもこの時、すでに七十歳。チェリオ陸軍病院に移ってからはほとんど毎日のように妻のアンネリーゼが見舞いや洗濯物の引き取り、身の回りの世話に訪れていた。このアンネリーゼはカプラーの釈放運動を行っていたドイツ人女性で、カプラーと文通を続けて七二年に獄中結婚し、ローマに住んでいた。
一九七七年八月十五日、チェリオ陸軍病院は騒然となった。カプラーの病室がモヌケの殻になっていたのである。ベッドにはカプラーの代りにクッションが横たわっていた。「カプラー脱走!」の報はイタリア中を駆け巡った。その八月十五日は「聖母マリア被昇天の祭日」としてイタリア全土が休日であった。各地の街々で「アルデアティーネの虐殺犯脱走」に怒った市民らが大デモを繰り広げた。その頃、アンネリーゼの運転するフィアット車で、カプラーはすでに西ドイツ領に入っていたのである。
どのようにして脱出したのか? 脱走二週間後、アンネリーゼが西ドイツの週刊誌「ブンテ」に寄稿、全容なるものを明らかにした。それによると登山が好きだった彼女はある日、ザイルを見て救出を思い立ったと言う。カプラーの病室は四階の角。下には花壇や木立ちがある。十四日の夜、面会時間終了直前に病室の窓から痩せ衰えたカプラーをザイルでしばり、十六メートル下の地上までおろした。病室のドアには「十時まで起さないで下さい」と書いた貼り紙をはった。あとはイタリアの高速道路アウトストラーダとドイツのアウトバーンをひた走った——。
二人はリュネベルク地方ゾルタウのウィルヘルム街六番地のアンネリーゼの実家に入った。イタリア政府はドイツ政府にカプラーの身柄返還を要求した。カプラーとアンネリーゼのいる家の前には、ネオ・ナチの青年達が立ち、身柄のイタリア返還に反対した。ドイツ政府は「西独基本法(憲法)は国民の国外強制送還を禁じている」として、イタリア側要求を拒否した。このためイタリア各地でドイツに対する反感が高まったが、癌の末期状態だったカプラーは翌七八年春、死亡した。イタリアではこのヘルベルト・カプラーの名はいまもなお忘れられることはない。
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