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ムッソリーニの処刑19

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:日本人三人も犠牲に! 反ナチ・ファシズム闘争を続けるパルティザンにとって、ムッソリーニ、ヒットラーとの同盟の一翼を担う日
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日本人三人も犠牲に!
 
 反ナチ・ファシズム闘争を続けるパルティザンにとって、ムッソリーニ、ヒットラーとの同盟の一翼を担う日本も、当然ながら敵であった。そのためパルティザンによるゲリラ活動が活発化した最中の四四年六月、三人の日本人が北イタリア山中でパルティザンの手により悲運に殪(たお)れた。イタリア駐在海軍武官光延東洋大佐(四十六歳)、大倉商事ローマ支店長朝香光郎氏(五十七歳)、三菱商事ローマ支店長牧瀬祐治郎氏(四十四歳)である。
兵隊が交戦中に敵弾で生命を失うのは仕方がないとしても、三人はいずれも自動車で山岳地帯を通過中、パルティザンに襲われたのである。光延大佐の場合は自動車の後部座席に軍帽軍服の正装で座っているところをいきなり乱射されて絶命した。朝香、牧瀬両氏はパルティザンに捕まり、一週間ほど拘禁の後に殺害されたとされているが、軍人でもないこの商社員を処刑するとは、いかに戦時下とはいえ、行き過ぎのそしりを免れないのではないか。パルティザンの「抵抗の大義」の汚点と言うべきであろう。
 私は戦後のローマで、この三人の日本人の死のことを耳にした。どのような状況で、どのような最期を遂げたのかについて詳細に知るイタリア人にはついぞめぐり会わなかった。ただ光延大佐の場合だけ、「この軍人は制服のまま、眉間に一発受けて従容として亡くなったそうだ」と、旧日本軍部と関係のあった人物から教えられた。その人もそれ以上のことは知らなかった。
結局、帰国後に日本で遺族を探して、分る範囲の状況をうかがうしかなかった。あのパルティザンの反ナチ・ファシズム戦争に三人の日本人も巻き込まれてかの地で生命を失ったことを、どうしても記録に留めて置きたかったからである。
幸いこの願いは多くの人々のお力添えでかなえられた。以下は知り得た限りでの三人の軌跡である。
東京世田谷に在住の光延大佐のトヨ夫人らからうかがったところによると、当時、在イタリア海軍武官光延東洋大佐はスイス転勤を命ぜられ、中部イタリア、モンテカティーニ・テルメのドイツ海軍司令部、またガルダ湖畔ガルドーネのイタリア国防省に転勤挨拶のため一九四四年六月七日、メラーノの武官府を出発した。光延の補佐官山仲伝吾中佐が後任となるため山仲も同行した。専属のイタリア人運転手アンジェロがハンドルを握った。車内には書類鞄六個のほか、すでに旅行さえ物騒な状況のため、護身用にイタリア製自動拳銃(四十発連射)二挺が用意されてあった。
途中、連合軍機の銃爆撃に遭いながらも無事モンテカティーニに着き、所用を終えた。同地に一泊して翌八日早朝、次の目的地ガルドーネに向った。国防相グラツィアーニ元帥との会見のためである。危険な空爆を避けてアペニン山脈の間道を選んだ。途中までイタリア海軍の車が先導した。
夕方五時頃、中部ピストイア県の山中にさしかかった時に悲劇は起った。詳しい状況は奇跡的に助かった山仲が、「光延少将戦死前後情況 昭和十九年六月 山仲在伊武官」(注・光延大佐は戦死後昇進)と表紙に記した記録にビッシリ書き込まれている。これは防衛庁戦史室に保管されている。主要部分だけ、次に引用させていただく(原文のまま)。
「一七〇〇頃(小官ガ時計ヲ見タルハ午後五時五分前ナリシヲ記憶シアリ)ABETONE(本横断道路ノ最高点高サ一三八八米)PIANO-SINOTICOノ中間ヲ通行中光延少将ガ「モー大体峠モ頂上ニ近イ 高イ所ハ涼シクテ気持ヨイシコンナ所ハ戦闘機モ銃撃ハ六ケ敷カラウ 矢張リ此道ヲ来テ良カツタ」ト語ラレタルニ依リ小官ハ上空ヲ眺メツツ「ソーデスネ」ト返答セシガ途端ニ光延少将ガ運転手ニ「FERMA(止マレ)」ト命ゼラレタルヲ以テ前方道路上ヲ注視セルニ「タイヤ」ヲパンクセシムル為ノ妨害物(ヒトデニ似タル形状 米英軍ガ落下傘ヲ用ヒテ供給シアルモノナルコト後ニ承知セリ)多量道路ヲ横切リ二列ニ配置シアルヲ認メタルガ車ハ過力ニテ第一列ヲ通過停止セリ
現場ハ道路ハ右ニ急「カーブ」シアリテ妨害物ハ直前マデ認メ得ズ左側ハ緩徐ナル丘陵ニシテ灌木ノ密林右側ハ道路ヲ築キタル高サ二、三米ノ崖ニシテ下方ハ急峻ナル灌木ノ密林遥カ下方ニ渓谷アリテ向側モマタ高キ山ナリ
当地ハ右側通行ナルト道路急「カーブ」ナル為自動車ハ道路右側ニ偏シ停車セリ
小官ハ停車後何等顧慮スルコトナク(敵機ガ独軍々用自動車ノ行動ヲ妨害スル為ニ散布セルモノト考ヘタリ)武器ヲ車内ニ置キタル儘運転手(「メラノ」居住ノ伊人ニシテ東部戦線ニ戦車隊員トシテ従軍セシコトアリ)ト共ニ下車 運転手ニハ前方障害物ノ除去ヲ命ジ小官ハ後方「タイヤ」ノ情況ヲ調査セント歩ミ出サントセシ際左側丘陵ヨリ「ALT LA」(其処ヲ動クナ)トノ声ヲ聞キソノ方ヲ注視セルニ突如約十米ノ距離ニ自動拳銃ヲ構ヘタル背広着用ノ兵約十名(昨年九月伊国降伏時独軍ノ武装解除ヲ免レ山中ニ潜入英米軍ノ指示ニテ独軍自動車及小部隊ヲ襲撃主トシテ独軍ノ後方交通線破壊ニ従事シアル「バドリオ」軍ニシテ英米軍ハ落下傘ヲ用ヒ武器弾薬ヲ供給シアルモノナリ爾後敵ト称ス)現レタリ
(中略)
小官ハ光延少将ニ「武官敵デス早ク外ヘ」ト叫ビ車ノ扉ニ手ヲ掛ケシ時敵ハ車ノ後部ニ対シテ一斉射撃ヲ加ヘタリ 小官ハ更ニ「武官々々」ト連呼シツツ見ルニ光延少将ハ前額部ヲ貫カレ(軍帽ノ「ヒサシ」ニ弾痕ヲ認メタリ)車ノ後部ニモタレ何等応答ナク唸リ声ヲ出シ瀕死ノ重傷ナルヲ認メタリ
運転手ハ敵ガ襲撃ヲ始ムルヤ直ニ両手ヲ挙ゲ大声ニテ叫ビツツ敵側ニ歩ミ降伏敵ニ押エラレタリ 敵ガ吾人ノコトヲ尋ネタルモノト見エ運転手ガ「日本将校」ト叫ビシ処 敵ノ指導者ラシキ者ガANCORA UN ALTRO AMMAZZATELO(マダ一人居ル アレモヤッツケロ)ト叫ビタルヲ聞キタルガ敵ハ引続キ射撃ヲ継続セルモ逃腰ナル為カ道路ヨリ二、三米ノ灌木ノ間ヨリ半身ヲ現シ射撃スルノミニテ道路上ニ下ラザリキ
小官ハ自動車ヲ楯ニ敵弾ヲ避ケツツ硝子ノ破壊セル窓ヨリ手ヲ入レ自動拳銃ヲ取リ応戦セントセシモ意ノ如クナラズ 其間敵ノ一人ガ側方ニ回リ道路上ニ下リテ小官ニ近ラン(筆者注・近寄ランのことか)トセシヲ以テ小官モコレニ随ヒ身ヲ転ゼントセル際足ヲ踏ミ外シ(自動車ガ道路側方ニ偏シ居タル為崖迄ノ余裕少カリシニ気付カザリキ)崖ヨリ滑リ落チ続イテ灌木ノ密林中ニ転落セリ
(中略)
(其ノ後釈放セラレ帰来セル運転手ノ言ニ依レバ敵ハ小官モ射殺セル旨語レリト)
小官ハ転落ノ際身体各部ヲ打チ行動自由ナラザラント動ケバ灌木ノ動キニ依リ敵ニ更ニ攻撃セラルルヲ以テ約三十分其儘灌木中ニ横臥セル儘待機セルガ(其間約二回機銃ノ銃声ヲ聞ケリ)光延少将ノ事ハ気懸リナルモ既ニ戦死セラレタルコト概ネ確実ナルヲ以テ現場ニ引返スハ無理ナリト考ヘ(以下略)」
 山仲伝吾の記述はさらに続き、夜九時過ぎ、前記密林からドイツ軍に運よく救出される情況も書かれている。光延少将の遺体は山仲によりメラーノに移送された。
 ところで私の資料の中から偶然、この事件に関ったとみられるパルティザンが寄稿した一文を近年、発見した。「CIVITAS」という隔月発行のイタリア政治研究資料誌一九八二年第四号である。同誌は一九一九年創刊で、戦後はキリスト教民主党領袖の一人で国防、内務両大臣を歴任したパオロ・エミリオ・タヴィアーニの監修になるもので、このタヴィアーニ自身、戦時中はパルティザン幹部の一人であった。
肝心のこの一文の寄稿者はカルロ・ガブリエリ・ロージという人物で、記事の要旨は次の通りである。
「一九四四年六月八日、アベトーネ峠のフォッセ・デル・アフリコという地点でパルティザンが道路を封鎖した。そこへ日本外交団の標識をつけた車が来た。車から降りた運転手は両手を挙げて、〈私はイタリア人だ。乗っているのは日本海軍高官二人。重要書類も積んでいる〉と話した。
パルティザンは日本人将校二人を殺害した。その車内の文書を検討すると、これは戦略戦術的にも価値あるものであると判断し、連合軍に送付することにした。文書内容は光延大佐がイタリア海軍の戦略などを日本のそれと比較検討したものもあり、地中海方面だけでなく太平洋海域でも貴重な情報となるものであった」
 連合軍にとって貴重な情報がつまっていたとされるこれら「光延ノート」は、光延がすぐれた分析をしていた証拠でもあった。光延が海軍兵学校四十七期の俊秀であったことを裏付けるものである。これに関連して、戦後明らかにされた興味ある一つの挿話を書き留めておきたい。英国BBCは八〇年代後半、日本海軍による四一年十二月八日の米国ハワイ真珠湾奇襲作戦のドキュメンタリー秘録番組を制作(八八年末NHK放映)した。その中でBBCは「日本の連合艦隊司令長官山本五十六は、四〇年十一月の英空軍による南イタリアのターラント軍港奇襲作戦の勝利をヒントに、その二ヵ月後に真珠湾奇襲攻撃を決定したと推定される」とコメントしていた。その根拠は英国情報部がつかんでいたとみられる。
もしその通りだとすれば、山本五十六は当時ローマにいて地中海戦域の戦況を研究調査していた光延やロンドン駐在武官からの報告で、この「ターラント奇襲作戦」の全容を知ったことはまず間違いない。そうした報告も駐在武官の任務の重要なひとつだったからである。
 光延大佐らがパルティザンに襲われたのは、待ち伏せされたのかそれともまったく偶然だったのかは明らかではない。山仲中佐の記録にもあるように、その日、光延らは途中までファシスト・イタリア海軍の車の先導を受けた。だとすればパルティザン側はそれを山岳地帯の山陰から目撃し、地形有利なアベトーネ峠で奇襲したことは想像に難くない。しかし一方、ナチ・ファシスト軍がよく利用した山中の間道だったところから、偶々遭遇してしまった光延らの悲劇だった可能性も考えられる。
 この事件から半世紀もたった九一年、この光延、山仲の二人の夫人と話をした。ともに健在である。
奈良県五条市にお住いの山仲生子(いくこ)夫人は、中佐が書いた前記「光延少将戦死前後情況」の記録が残っていることを告げると、「えっ」と、電話の向うで驚きの声をあげた。ややあってから、ようやく「そうですか、初めて聞きました」と言葉をつないだ。
夫人によると——
山仲伝吾はドイツで連合軍に収容され、終戦の年の暮に米国経由で帰国した。昭和五十六年十月十七日に病気で亡くなったが、あの日のことをいつも想い出しては、夫人に語り続けていた。
「あの時、道路の前に並べられていた栗のいがの形をしたものは爆発物だと、最初は思った。その直後に一斉射撃を受けた。見ると大佐は頭部を直撃されていびきをかくようにしていた。その朝、元気で一緒に出たのに、自分だけが生き残って本当に申し訳ない。光延夫人にも済まない」
これが山仲が亡くなるまで繰り返していた言葉だったという。
その光延トヨ夫人にも東京都世田谷区等々力のお宅でお目にかかった。
「山仲中佐は戦後、幾度もここを訪ねて下さいました。その度ごとに『私だけが生き残っていて申訳ない』と申されておりました。とても立派なお方でした。奥様ともずっといまもお付き合いしております」とのことであった。
四四年六月のその日のことを、トヨ夫人は当時いたメラーノで知らされた。日独伊三国同盟という時代背景で起ったこの悲痛な事件についての心境も語られたが、「私の悲しみは、私だけで沢山ですし、自分のことだけにしておきたいので、どうぞ活字にはして下さいますな」とのことなので、それらは割愛せざるを得ない。
 朝香、牧瀬両氏の場合は、同行のイタリア人運転手ともども三人が一緒に処刑されてしまったため、詳細な全容は不明なのである。すべて伝聞によるしかない。当時、牧瀬氏と同じ三菱商事駐在員藤井歳雄、朝香氏末娘光子、牧瀬氏の家族らから話をうかがった。
 四三年七月、既述のようにローマの在留邦人は北の各地に避難した。一部は在ドイツ日本大使館の計いでウィーン南郊ボッフィングのジーメンス療養所に仮住いした。後に北イタリアから合流したものも含め、総数は数十人になっていた。
朝香、牧瀬両家族もこのボッフィングで年を越した。その四四年春、連合軍はナポリ北方のモンテ・カッシーノ攻防戦に足をとられて動きは鈍かった。戦局の膠着状態が続いた。ジーメンス療養所に仮住いする邦人達もいきおい生活に疲れ、「まだ北イタリアの方がましではないか。戦場でもないし、行ける方法はないものか」との声が強まった。
そこでボッフィング組のリーダー格の朝香、牧瀬両氏がヴェネツィアの日本大使館に打診のため、六月に入ってヴェネツィアに向った。イタリア人運転手がついて行った。ところがボッフィングに帰着予定の日を過ぎても、朝香らは戻らなかった。連絡もなかった。ヴェネツィアの日本大使館に問い合わせると「もうとうに戻っているはず」との返事であった。当然、「行方不明」の疑いが生じ、大使館は調査を始めるとともにドイツ軍当局にも捜索、捜査を依頼した。
家族や邦人一同は、無事帰還を祈るのみであったが、何の手掛りもなかった。しばらくして「日本人の車が山の方に向っていたのを見た」というイタリア人の情報もあったが何もつかめず、いたずらに月日が経つばかりであった。北イタリア移転の話など吹き飛んでしまっていた。
それから半年も経った十二月に入って、もっとも恐れていた悲報がもたらされたのである。ドイツ軍当局からであった。
それによると——。
ナチ親衛隊ゲシュタポが、逮捕したイタリア・パルティザンを取調べているうちに、このパルティザンらが日本人二人を含む三人を捕えて処刑したと自供した。日本人らを捕えた場所はヴェネツィアに近いヴィチェンツァ県のスキオという小さな都市近郊であった。スキオは南チロル、ドロミテ・アルプスの麓にあって、毛織物産業が盛んなところである。
パルティザンの自供では、六月十二日から十四日ごろまでの間に、この日本人らを処刑したとのことで、処刑場所もスキオ市近郊であった。日本人二人とイタリア人運転手の三人を同時に処刑したという。当時、行方不明の日本人は朝香、牧瀬両氏しかいなかったため、状況判断から遭難者はこの二人に違いないとされた。
このゲシュタポ報告によって、メラーノの大倉商事駐在員犬丸幹雄と、別の場所にいた三菱商事駐在員加藤章がともに現場に急行し、ドイツ軍の協力を得てパルティザンの指定した場所を発掘した。すでに白骨化した三遺体が現われた。まぎれもなく、うち二つは東洋人のものと、犬丸、加藤も確認した。その時のゲシュタポの話によれば、パルティザンは二人の日本人らに自ら墓穴を掘らせ、掘り上がったところで背後から射殺したとのことであった。
 犬丸、加藤両氏は朝香、牧瀬両氏の遺体を荼毘(だび)に付し、ベルリンの日本大使館に無事届けた。
犬丸、加藤両氏は現場での見聞を言葉少なに遺族に伝えたらしいが、この両氏もすでに他界し、詳細を知る手段はない。幸い関係者から確認する機会を得たが、当時、犬丸氏はパルティザンの支配地域に両氏の遺体を引き取りに行き、こんどはいつ自分らが捕まるかと往復の道を恐る恐る走ったと洩らしていたという。
そして十二月末、ベルリンの日本大使館で朝香、牧瀬両氏の告別式が行われた。
 日本人関係者から聞いて、明確に分ったことはこれだけである。だがパルティザンは何を理由にこの二人の商社員を射殺したのだろうか。彼らの記憶で六月十二日から十四日までの間に処刑が行われたとすれば、ヴェネツィアの日本大使館を出発して間もなく捕ったとしても、約一週間ほどこの二人とイタリア人運転手は拘留されていたことになる。その間、どうしていたのだろうか。運転手のイタリア人までも射殺したとはどういうことであろうか。
当時の北イタリア在留邦人で、「三人は逃げようとして殺されたと聞いた」と発言する人もいるが確認はできない。ゲシュタポに捕ったそのパルティザン達も、取調べが終った段階で直ちに処刑されたことはほぼ間違いない。今となってはこうして「加害者」も皆「被害者」になってしまっている。
確実なことは朝香、牧瀬両氏が殺されたということだけである。この二人の遺族は、状況から判断して六月十二日を命日に決めている。それにしてもなぜ、どうして? は不明のまま、歴史の中に埋没してしまった。ゲシュタポのその時のパルティザン尋問調書は果してあるのかどうか? 以上三人の場合、いかにも無念としか言いようがない事件である。
 実はこの朝香、牧瀬両氏が殺されたスキオ郊外で、別のもう一人の日本人が車で通行中、パルティザンに「止まれ!」と銃をつき付けられた。同じ月の九日のことである。ごく近くのどこかで朝香、牧瀬両氏がまだ生きている時である。
その人、朝日新聞特派員清水三郎治は所用で南チロルのボルツァーノから海軍武官府のあるメラーノなどを回っていた。武官府に挨拶に行くと、ただならぬ空気が流れていた。「何かあったのか?」と尋ねても、ただ「途中、十分気を付けて下さい」という返事だけであった。
ヴェネツィアまでの帰途、幹線道路は猛爆撃が続いており、危険を避けるためガルダ湖畔の主要な都市デゼンツァーノから北方のトレントへ抜ける道を行き、スキオに出てヴェネツィアに下りる道をとった。途中、ドイツ軍将校に便乗させてくれと頼まれ、断れずに困った。その将校は幸い、デゼンツァーノで降りてくれたのでほっとした。
日の丸をつけた車に、一人だけでハンドルを握っていた。ガルダ湖の東のスキオに差しかかった時、突然、車の前に銃を持った男達が現われて、「止まれ」と命じた。初めはパルティザンだとは思わなかった。背広やレインコートを着ており、道路整備の監視人ぐらいにしか見えなかった。だが銃をつき付けられてはじめて、パルティザンだと気付いた。
と、清水は咄嗟(とつさ)に大事に持っていたタバコとコーヒーの包みを両手で差し出した。ほとんど反射的な行為であった。数人のパルティザンのうち一番若いのが、それを受け取ると、「早く行け!」と合図した。
あとはもう無我夢中で車を走らせ、ヴェネツィアに舞い戻った。そこで光延大佐の件を初めて知らされた。それだけに、無事戻れたことは奇跡的と思われた。
当時、タバコやコーヒーは一般でも貴重品であった。山中に立て籠るパルティザンにとってはなおさらである。「私はあの時、コーヒーとタバコのおかげで間一髪、命拾いした」と、清水は今でも信じている。あの時、清水の車には日の丸がつけられていた。日本人であることを明示するためであった。それはドイツ軍に対しては有効だったかも知れないが、パルティザンに対しては「敵」の印でもあったのだ。そしてもし、あのドイツ軍将校がデゼンツァーノで下車せず、スキオまで同乗していたら、事態はまったく正反対の結果を生んでいたはずである。
 毎日新聞の小野七郎はパルティザンの襲撃に備えて、マルチェッロという飛びきり腕のいい自動車レーサーを運転手に雇っていた。おかげで幾度も死線を越えた。ガレ場をサーカスのように飛び降りたり、前方に倒された障害物の大木を飛び越えたりして、パルティザンの襲撃を無事にかわしたものである。その度ごとに背後から猛射を浴び、車の後のガラスはクモの巣のようにひび割れしたこともしばしばであった。
 日本大使館員もパルティザンから狙われていた。これまた同じ六月のことであった。当時の同僚によると、前出の日本公使加瀬俊一はその晩、濃いコーヒーを飲んで寝つけないでいた。午前三時頃、覆面の三人が押入り、エーテルかなにかをかがされて眠らされた。気が付くと、パジャマ姿のまま袋に入れられて、戸外に置かれていた。袋を破って逃げ帰った。あとで分ったことは、公使の大家の息子がパルティザンになり、身代金要求のため誘拐計画を計ったが、公使がコーヒーの飲み過ぎでいつまでも眠らないため犯行が遅れたうえ、巡察が見回りに来て未遂のまま逃走したとのことであった。
また書記生野一色武雄は寝ている時、ドアの下から手紙を差し込まれた。手紙には「金を払え。払わないとお前はご先祖様のところに行くぞ」と書いてあったという。
恐ろしく、そして悲しい時期であった。
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