在留日本人、北に避難
アメリカ軍がローマに一番乗りした六月四日、一人の日本人新聞記者が市内にいた。読売新聞ローマ特派員山崎功である。山崎は戦後の五九年に再びローマ特派員となり、毎日新聞の同じくローマ特派員であった大学の後輩に当る私に、機会あるごとに十五年前のことを回想してあれこれ語った。山崎は戦中戦後のイタリアを知る日本のイタリア研究の先達の一人である。
彼はローマが連合軍の手に落ちるのをその目で見届けたかった。「愛するローマがアングロ・アメリカンに落とされるのを見るのはつらかったが、一つの歴史が終って別の歴史が始まる瞬間を報道するのは特派員のつとめだ」と述べていた。
イタリアが四三年九月八日に休戦した直後、ローマの在留邦人は一斉に北イタリアに避難した。だがローマが同盟国ドイツに占領された後、日本人記者団は再びローマに舞い戻り、報道を続けた。それから約八ヵ月後、いよいよ連合軍がローマに接近、首都が戦場になる危険が生じると山崎一人だけが踏み止まっていた。六月四日夕、アメリカ軍の戦車がローマに入って来たのを見届けると、山崎はヴェネツィアに向った。ヴェネツィアにはローマから移った日本大使館があったからである。
「ローマに残っていても、軍人ではないから助かるとは思ったが、日本に原稿を送るため、ヴェネツィアに戻ろうとしたのだ」と山崎は語ったが、途中、ドイツ軍に乗用車を奪われ、さらにパルティザンに身ぐるみはがれるなどの難儀に遭った。
「原稿だけは無事だった。数日遅れだが原稿はヴェネツィアから特別手段でベルリンの支局に転送し、そこから日本に打電されて何とか面目をほどこした」
彼はローマが連合軍の手に落ちるのをその目で見届けたかった。「愛するローマがアングロ・アメリカンに落とされるのを見るのはつらかったが、一つの歴史が終って別の歴史が始まる瞬間を報道するのは特派員のつとめだ」と述べていた。
イタリアが四三年九月八日に休戦した直後、ローマの在留邦人は一斉に北イタリアに避難した。だがローマが同盟国ドイツに占領された後、日本人記者団は再びローマに舞い戻り、報道を続けた。それから約八ヵ月後、いよいよ連合軍がローマに接近、首都が戦場になる危険が生じると山崎一人だけが踏み止まっていた。六月四日夕、アメリカ軍の戦車がローマに入って来たのを見届けると、山崎はヴェネツィアに向った。ヴェネツィアにはローマから移った日本大使館があったからである。
「ローマに残っていても、軍人ではないから助かるとは思ったが、日本に原稿を送るため、ヴェネツィアに戻ろうとしたのだ」と山崎は語ったが、途中、ドイツ軍に乗用車を奪われ、さらにパルティザンに身ぐるみはがれるなどの難儀に遭った。
「原稿だけは無事だった。数日遅れだが原稿はヴェネツィアから特別手段でベルリンの支局に転送し、そこから日本に打電されて何とか面目をほどこした」
ここで戦時中ローマにいた在留日本人について触れておく。日独伊三国同盟という関係からイタリアにとって日本は友邦であった。現在でもイタリアはヨーロッパの中でも親日国の随一と言えるが、当時ローマにいた人達は今でも、「イタリアの人達はわれわれ日本人にとても好意的だった」と懐かしがる。その頃は日本大使館、ヴァチカン公使館のほか陸海軍武官府もあり、主要新聞社のローマ支局、また有力商社がいくつもローマに支店を出していた。音楽や美術の若い研究生も数多くいた。以上のような人達の家族を含めると、在留邦人はかなりの数に上ったのである。
ムッソリーニは日本人には特別の感慨を抱いていたようである。日本人の会合などに突然、姿を見せて感激させたこともある。四二年(昭和十七年)四月、「ローマ日本友の会」の発会式があったが、その席にもムッソリーニは軍服姿で出席し、両国友好強化の即席演説を行い、日本人と一緒に写真にもおさまった。また彼は日本人記者と会うたびに、「余は勇武なる日本に尊敬の念で一杯である。是非一度、日本に行ってみたい」と、お世辞ではない心からの想いを洩らした。
そのムッソリーニが四三年七月二十五日、前夜来のファシズム大評議会で「統帥権の国王への返還決議」をつきつけられ、事実上失脚したことは前述したが、その二十五日正午、かねての予定で新任の日本大使日高信六郎と官邸ヴェネツィア宮で会見した。「国王は自分を信任している」との自負から、その数時間後に逮捕されることなど夢にも思ってはいなかったからである。このムッソリーニ・日高会見中に、軍部と王室によるムッソリーニ逮捕準備が着々進んでいたのである。
ムッソリーニがイタリア王国首相時代、最後に公式会見した外国使臣がこの日高ということになるが、ムッソリーニの日本への信頼感はことのほか厚く、その後ムッソリーニが北イタリアに社会共和国を樹立した後も日高とは親交を重ね、ムッソリーニは公的、私的の重要書類(書簡ともいわれる)多数の保管を日高に依頼したという。それらは日高の手によりフィルム化され、現在スイスのさる銀行の奥深くに眠っていることが、半世紀もたった九〇年初頭にイタリア各紙に報じられた(注1)。
話は前後するが、四三年七月二十五日のムッソリーニ逮捕、バドリオ政権への移行前から、ローマの邦人の間では戦局の推移におちおちしてはいられない空気が生れていた。その七月九、十日にはシチリアに連合軍が上陸したからである。邦人の間には自然発生的に隣組組織が生れ、「いざという時、誰の車でどこに退避するか」も申し合わされた。
同盟通信ローマ特派員佐々木凜一はその年のはじめ、すでにイタリア人の知人から街でひそかに歌われているザレ歌を教えられた。
「それは MUSSOLINIの名前を頭文字にした MORIRAI UCCISO SENZA SACRAMENTO ODIATO LIBERANDO IN FINE NOI ITALIANIという歌だった。意味は『お前は終油を受けることなく憎まれて殺されるだろう。最後にわれわれイタリア人を解放して』という文句。結局はその通りになった。でもこの歌は七月二十五日に彼が捕まる七ヵ月ほど前に聞いていたから、もうその頃、敗戦になるぞという空気があった」と佐々木は回想する。
ムッソリーニは日本人には特別の感慨を抱いていたようである。日本人の会合などに突然、姿を見せて感激させたこともある。四二年(昭和十七年)四月、「ローマ日本友の会」の発会式があったが、その席にもムッソリーニは軍服姿で出席し、両国友好強化の即席演説を行い、日本人と一緒に写真にもおさまった。また彼は日本人記者と会うたびに、「余は勇武なる日本に尊敬の念で一杯である。是非一度、日本に行ってみたい」と、お世辞ではない心からの想いを洩らした。
そのムッソリーニが四三年七月二十五日、前夜来のファシズム大評議会で「統帥権の国王への返還決議」をつきつけられ、事実上失脚したことは前述したが、その二十五日正午、かねての予定で新任の日本大使日高信六郎と官邸ヴェネツィア宮で会見した。「国王は自分を信任している」との自負から、その数時間後に逮捕されることなど夢にも思ってはいなかったからである。このムッソリーニ・日高会見中に、軍部と王室によるムッソリーニ逮捕準備が着々進んでいたのである。
ムッソリーニがイタリア王国首相時代、最後に公式会見した外国使臣がこの日高ということになるが、ムッソリーニの日本への信頼感はことのほか厚く、その後ムッソリーニが北イタリアに社会共和国を樹立した後も日高とは親交を重ね、ムッソリーニは公的、私的の重要書類(書簡ともいわれる)多数の保管を日高に依頼したという。それらは日高の手によりフィルム化され、現在スイスのさる銀行の奥深くに眠っていることが、半世紀もたった九〇年初頭にイタリア各紙に報じられた(注1)。
話は前後するが、四三年七月二十五日のムッソリーニ逮捕、バドリオ政権への移行前から、ローマの邦人の間では戦局の推移におちおちしてはいられない空気が生れていた。その七月九、十日にはシチリアに連合軍が上陸したからである。邦人の間には自然発生的に隣組組織が生れ、「いざという時、誰の車でどこに退避するか」も申し合わされた。
同盟通信ローマ特派員佐々木凜一はその年のはじめ、すでにイタリア人の知人から街でひそかに歌われているザレ歌を教えられた。
「それは MUSSOLINIの名前を頭文字にした MORIRAI UCCISO SENZA SACRAMENTO ODIATO LIBERANDO IN FINE NOI ITALIANIという歌だった。意味は『お前は終油を受けることなく憎まれて殺されるだろう。最後にわれわれイタリア人を解放して』という文句。結局はその通りになった。でもこの歌は七月二十五日に彼が捕まる七ヵ月ほど前に聞いていたから、もうその頃、敗戦になるぞという空気があった」と佐々木は回想する。
そうした時が駆け足で近づいていた。連合軍のシチリア上陸後、ローマの日本大使館は緊急要員以外は安全地帯に退避するよう邦人に勧告した。折柄、夏期休暇とあって在留邦人のうち女性や子供達は北イタリアの山岳地帯やウィーン南方などに疎開した。いずれもドイツとの国境をはさんだ小都市が多かった。緊急要員の男達だけがローマに残っていたのである。
しかしそれから四十五日後、突如として事態は一変した。バドリオ政府が九月八日夜、連合軍との休戦を発表したからである。来るべきものが来たのだ。イタリアが事実上、三国同盟を離脱する以上、在留日本人は自ら安全を確保するしかなかった。
日本大使館は急遽、「ローマの残留日本人も北イタリアへ避難」を決定し、「明日、邦人は大使館に集合するように」と隣組組織を通じて連絡した。同時に友邦ドイツ大使館にも様子を打診した。広報担当書記官のフォン・ボルヒが「イタリアの外務省と協議の結果、ドイツ向けの特別列車を出してくれることになった」と伝え、日本人もこれに乗せられるとも述べた。
翌朝、日本大使館がドイツ大使館に連絡すると、その特別列車はすでに出発してしまったとのことであった。日本大使館は独自の脱出策を講じた。大使館は館員と在留邦人をまとめてヴェネツィアに向け出発させ、陸海軍武官府はそれぞれ行先を決めることになった。
九日午後一時、邦人達はレジナ・マルゲリータ通りの日本大使館に集合、自動車でコンヴォイ(隊列)を組んで出発することにした。大使館では脱出に際して暗号表、重要書類などを焼却しなければならない。この作業には戦後ミラノ総領事になった当時の官補金倉英一、書記生野一色武雄、ローマ大学院院生で大使館嘱託となっていた後の京大名誉教授野上素一ら数人が当った。大使館の庭で、書類を重ねて火を付けても中々燃え上がらない。少しずつ揉みくちゃにすると、やっとうまく燃え上がった。全部を焼却するのにかなりの時間がかかった。
大使はそれをじっと待っていた。全部の焼却を確認すると、金倉、野一色らを車に乗せて最後に大使館を出た。午後一時発の予定が午後三時になってしまっていた。大使公邸の日本人料理人が途中の食料として寿司を大量に作り、それを逃避行用に持参した。先頭車には公使の加瀬俊一(後の国連大使とは同姓同名の別人)らが乗った。
朝日新聞ローマ特派員清水三郎治によると、その邦人コンヴォイは二十四台であったという。先頭の公使車と最後尾の大使車の間に、大使館員や商社員、新聞特派員らが入って、日本人自動車の隊列はヴェネツィアを目指して進んだ。
ヴェネツィアに決めた理由は、イタリア外務省の外交団担当官がヴェネツィア行きを明言していたからであった。各車はそれぞれ、日頃ヤミで買いだめしておいた食料品やガソリンを積んで北上した。途中、日常茶飯事となっていた連合軍機の爆撃にも遭遇し、一行はその夜、ペルージアに一泊した。翌日、アペニン越えの山中の急カーブで、同盟通信の佐々木の新車が百八十度引っくり返り、車は大破、ガソリン缶がつぶれて流出した。幸い引火もせず、同乗していた読売新聞特派員山崎ともども奇跡的に助かるという事故もあった。
ヴェネツィアに入ると、ローマ広場でイタリア軍の武装解除が始まるところであった。日本大使館が事務所に予約していたホテル・ダニエリにはドイツ軍高官がいて「ここは戦場になるであろう。別のホテルに行け」と指示した。一行は近くのトレヴィーゾに一泊し、ホテル・ダニエリに戻るとドイツ軍が接収していた。一悶着の挙句、ようやく日本大使館は必要スペースを明け渡させたというエピソードもある。
また陸軍武官府はコルティーナ・ダンペッツォ、海軍武官府はメラーノにそれぞれ事務所を開設、商社、新聞社支局もそれぞれ近隣地域に居を定めた。
しかしそれから四十五日後、突如として事態は一変した。バドリオ政府が九月八日夜、連合軍との休戦を発表したからである。来るべきものが来たのだ。イタリアが事実上、三国同盟を離脱する以上、在留日本人は自ら安全を確保するしかなかった。
日本大使館は急遽、「ローマの残留日本人も北イタリアへ避難」を決定し、「明日、邦人は大使館に集合するように」と隣組組織を通じて連絡した。同時に友邦ドイツ大使館にも様子を打診した。広報担当書記官のフォン・ボルヒが「イタリアの外務省と協議の結果、ドイツ向けの特別列車を出してくれることになった」と伝え、日本人もこれに乗せられるとも述べた。
翌朝、日本大使館がドイツ大使館に連絡すると、その特別列車はすでに出発してしまったとのことであった。日本大使館は独自の脱出策を講じた。大使館は館員と在留邦人をまとめてヴェネツィアに向け出発させ、陸海軍武官府はそれぞれ行先を決めることになった。
九日午後一時、邦人達はレジナ・マルゲリータ通りの日本大使館に集合、自動車でコンヴォイ(隊列)を組んで出発することにした。大使館では脱出に際して暗号表、重要書類などを焼却しなければならない。この作業には戦後ミラノ総領事になった当時の官補金倉英一、書記生野一色武雄、ローマ大学院院生で大使館嘱託となっていた後の京大名誉教授野上素一ら数人が当った。大使館の庭で、書類を重ねて火を付けても中々燃え上がらない。少しずつ揉みくちゃにすると、やっとうまく燃え上がった。全部を焼却するのにかなりの時間がかかった。
大使はそれをじっと待っていた。全部の焼却を確認すると、金倉、野一色らを車に乗せて最後に大使館を出た。午後一時発の予定が午後三時になってしまっていた。大使公邸の日本人料理人が途中の食料として寿司を大量に作り、それを逃避行用に持参した。先頭車には公使の加瀬俊一(後の国連大使とは同姓同名の別人)らが乗った。
朝日新聞ローマ特派員清水三郎治によると、その邦人コンヴォイは二十四台であったという。先頭の公使車と最後尾の大使車の間に、大使館員や商社員、新聞特派員らが入って、日本人自動車の隊列はヴェネツィアを目指して進んだ。
ヴェネツィアに決めた理由は、イタリア外務省の外交団担当官がヴェネツィア行きを明言していたからであった。各車はそれぞれ、日頃ヤミで買いだめしておいた食料品やガソリンを積んで北上した。途中、日常茶飯事となっていた連合軍機の爆撃にも遭遇し、一行はその夜、ペルージアに一泊した。翌日、アペニン越えの山中の急カーブで、同盟通信の佐々木の新車が百八十度引っくり返り、車は大破、ガソリン缶がつぶれて流出した。幸い引火もせず、同乗していた読売新聞特派員山崎ともども奇跡的に助かるという事故もあった。
ヴェネツィアに入ると、ローマ広場でイタリア軍の武装解除が始まるところであった。日本大使館が事務所に予約していたホテル・ダニエリにはドイツ軍高官がいて「ここは戦場になるであろう。別のホテルに行け」と指示した。一行は近くのトレヴィーゾに一泊し、ホテル・ダニエリに戻るとドイツ軍が接収していた。一悶着の挙句、ようやく日本大使館は必要スペースを明け渡させたというエピソードもある。
また陸軍武官府はコルティーナ・ダンペッツォ、海軍武官府はメラーノにそれぞれ事務所を開設、商社、新聞社支局もそれぞれ近隣地域に居を定めた。
毎日新聞特派員小野七郎の家族も、七月の段階で、メラーノのホテルに避難していた。九月十二日に幽閉中のムッソリーニがグラン・サッソからドイツ軍に救出された数日後、そのホテルにオートバイの先導で黒塗りの自動車が着いた。
出て来たのはローマで見なれたムッソリーニの愛人クラレッタ・ペタッチとその母ジュゼッピーナ、妹ミリアムの三人であった。メラーノはすでに秋色濃いというのに、三人はよれよれの夏服のままであった。世話好きの小野の妻桃代は、衣類、石鹸、化粧品などをクラレッタの部屋に届けに行った。聞いたところによると、この三人はムッソリーニの逮捕直後に、反ファシストに連行され、ノヴァーラの刑務所に入れられていたところを、これまたドイツ軍に救出されたのだという。
この奇縁で小野家とペタッチ家の家族は急速に親しくなった。小野家の子供達はよくケーキなども御馳走になった。それからしばらくして十一月、氷雨のそぼ降る日にクラレッタはいなくなった。「パドローネ(パトロン)の許に行ったのだろう」と小野は思った。
やがてXマスが近づいた雪の朝、小野は「ムッソリーニ閣下の伝令です」と名乗る制服の男から直接、封書を受け取った。「明日午後三時、大本営で貴殿と会見する」との招待状であった。クラレッタが取り持った統帥との単独記者会見のチャンスであったことは言うまでもない。
この会見は、ムッソリーニが救出されて以来、初めてのものであった。世界的なニュースとなった。この機会に、ムッソリーニは小野の人柄を信頼したためか、共和国政府のあるガルダ湖畔に毎日新聞支局の家屋を手配してくれた。当時、湖畔の狭いリゾートに政府諸機関が置かれたため、大変な住宅難であった。貴族や富豪の別荘もあらかた接収されていた。そうしたガルドーネ地区の湖水に面したヴィッラ・フィオルダリソ荘(矢車草荘)という四階建の豪奢な館(やかた)を見付けてくれたのである。
小野はムッソリーニの過分の好意に首をかしげたが、やがてその謎が解けた。ムッソリーニから、「そのヴィッラにクラレッタを同居させてやってくれまいか」と依頼されたからである。そのうえ強引に、ムッソリーニのお目付役であるナチ親衛隊の大将ヴォルフを呼び付け、小野の前で「ペタッチ夫人は、本人の希望により小野の保護下に入った」と、事務的に告げた。
ムッソリーニの執務室のあるガルニャーノは、このガルドーネから僅か数キロである。小野家にクラレッタを預けておけば、ムッソリーニには便利でかつ安心だったのであろう。
小野は一九八三年晩秋、東京を訪れたイタリアのファシズム史研究の著名なジャーナリスト、アッリーゴ・ペタッコに当時の秘話をいくつか語っている(注2)。一つはムッソリーニがクラレッタと話したい時には、彼は「モシモシ、ワタシ」と日本語で電話をかけて来たこと。小野はその電話をクラレッタの部屋につなぐと、彼女も「モシモシ、ワタシヨ」と日本語で答えて電話での会話が始まった。
もう一つ興味あることは、大戦末期に日本政府はムッソリーニを日本に移送する計画を着々進めていたことである。どのように身柄を日本に移すかについてはその記事は触れていないが、この計画はほとんど完成していたという。日本側がこれをムッソリーニに示した時、彼は部下とヴァルテッリーナで最後の戦いをするからと言って、これを拝辞した。もし受けていたら、ムッソリーニは助かっていたであろう——という話である。
出て来たのはローマで見なれたムッソリーニの愛人クラレッタ・ペタッチとその母ジュゼッピーナ、妹ミリアムの三人であった。メラーノはすでに秋色濃いというのに、三人はよれよれの夏服のままであった。世話好きの小野の妻桃代は、衣類、石鹸、化粧品などをクラレッタの部屋に届けに行った。聞いたところによると、この三人はムッソリーニの逮捕直後に、反ファシストに連行され、ノヴァーラの刑務所に入れられていたところを、これまたドイツ軍に救出されたのだという。
この奇縁で小野家とペタッチ家の家族は急速に親しくなった。小野家の子供達はよくケーキなども御馳走になった。それからしばらくして十一月、氷雨のそぼ降る日にクラレッタはいなくなった。「パドローネ(パトロン)の許に行ったのだろう」と小野は思った。
やがてXマスが近づいた雪の朝、小野は「ムッソリーニ閣下の伝令です」と名乗る制服の男から直接、封書を受け取った。「明日午後三時、大本営で貴殿と会見する」との招待状であった。クラレッタが取り持った統帥との単独記者会見のチャンスであったことは言うまでもない。
この会見は、ムッソリーニが救出されて以来、初めてのものであった。世界的なニュースとなった。この機会に、ムッソリーニは小野の人柄を信頼したためか、共和国政府のあるガルダ湖畔に毎日新聞支局の家屋を手配してくれた。当時、湖畔の狭いリゾートに政府諸機関が置かれたため、大変な住宅難であった。貴族や富豪の別荘もあらかた接収されていた。そうしたガルドーネ地区の湖水に面したヴィッラ・フィオルダリソ荘(矢車草荘)という四階建の豪奢な館(やかた)を見付けてくれたのである。
小野はムッソリーニの過分の好意に首をかしげたが、やがてその謎が解けた。ムッソリーニから、「そのヴィッラにクラレッタを同居させてやってくれまいか」と依頼されたからである。そのうえ強引に、ムッソリーニのお目付役であるナチ親衛隊の大将ヴォルフを呼び付け、小野の前で「ペタッチ夫人は、本人の希望により小野の保護下に入った」と、事務的に告げた。
ムッソリーニの執務室のあるガルニャーノは、このガルドーネから僅か数キロである。小野家にクラレッタを預けておけば、ムッソリーニには便利でかつ安心だったのであろう。
小野は一九八三年晩秋、東京を訪れたイタリアのファシズム史研究の著名なジャーナリスト、アッリーゴ・ペタッコに当時の秘話をいくつか語っている(注2)。一つはムッソリーニがクラレッタと話したい時には、彼は「モシモシ、ワタシ」と日本語で電話をかけて来たこと。小野はその電話をクラレッタの部屋につなぐと、彼女も「モシモシ、ワタシヨ」と日本語で答えて電話での会話が始まった。
もう一つ興味あることは、大戦末期に日本政府はムッソリーニを日本に移送する計画を着々進めていたことである。どのように身柄を日本に移すかについてはその記事は触れていないが、この計画はほとんど完成していたという。日本側がこれをムッソリーニに示した時、彼は部下とヴァルテッリーナで最後の戦いをするからと言って、これを拝辞した。もし受けていたら、ムッソリーニは助かっていたであろう——という話である。
それにしても、この話といい、日本大使の日高に重要書類などの保管をまかせるなどの話といい、その頃のムッソリーニは同じ同盟国でもドイツよりはるかに日本に強い信頼感を寄せていたことがうかがわれる。